ふかえりは肯いた。
「それは言わなくていい。僕と君とのあいだの秘密だ」
「それはいわない」とふかえりは言った。
「新人賞に応募したとき、賞をとれると思っていましたか?」
彼女は微笑んだが、口は開かなかった。沈黙が続いた。
「答えたくないんだね?」と天吾は尋ねた。
「そう」
「それでいい。答えたくないときには黙ってにこにこしていればいい。どうせ下らない質問だ」
ふかえりはまた肯いた。
「『空気さなぎ』の物語の筋はどこから思いついたんですか?」
「めくらのヤギからでてきた」
「めくらはまずいな」と天吾は言った。「目の見えない山羊と言った方がいい」
「どうして」
「めくらっていうのは差別用語なんだ。そんな言葉を耳にしたら、新聞記者の中には軽い心臓発作を起こす人もいるかもしれない」
「サベツヨウゴ」
「説明すると長くなる。とにかくめくらの山羊じゃなくて、<���傍点>目の見えない</傍点>山羊に言い換えてくれないかな」
ふかえりは少し間を置いてから言った。「めのみえないヤギからでてきた」
「それでいい」と天吾は言った。
「<���傍点>めくら</傍点>はだめ」とふかえりは確認した。
「そういうこと。でもその答えはなかなかいい」
天吾は質問を続けた。「学校の友だちは、今回の受賞についてなんて言っていますか?」
「ガッコウにはいかない」
「どうして学校に行かないのですか?」答えはなし。
「これからも小説は書き続けますか?」
やはり沈黙。
天吾はコーヒーを飲み干し、カップをソーサーに戻した。店の天井に埋め込まれたスピーカーからは弦楽器の演奏する『サウンド?オブ?ミュージック』の挿入歌が小さな音で流れていた。雨粒と、バラと、子猫のひげと……。
「わたしのこたえはまずい」とふかえりは尋ねた。
「まずくない」と天吾は言った。「ぜんぜんまずくない。それでいい」
「よかった」とふかえりは言った。
天吾の言ったことは本心だった。一度にひとつのセンテンスしか口にしないにせよ、句読点が不足しているにせよ、彼女の答え方はある意味では完壁だった。何よりも好ましいのは間髪を入れず返答がかえってくるところだった。そして彼女は相手の目をまっすぐ見ながら、まばたきひとつせず返事をした。正直な返答をしている証拠だ。人を小馬鹿にして短い答えを返しているのではない。おまけに、彼女が何を言っているのか、正確なところは誰にも理解できそうにはない。それこそが天吾の望んでいることだった。誠実な印象を与えながら、相手をうまく煙にまいてしまうこと。
「好きな小説は?」
「ヘイケモノガタリ」
素晴らしい返答だと天吾は思った。「『平家物語』のどんなところが好きですか?」
「すべて」
「そのほかには?」
「コンジャクモノガタリ」
「新しい文学は読まないのですか?」
ふかえりはしばらく考えた。「サンショウダユウ」
素晴らしい。森鴎外が『山椒大夫』を書いたのはたしか大正時代の初めだ。それが彼女の考える新しい文学なのだ。
「趣味はなんですか?」
「オンガクをきくこと」
「どんな音楽?」
「バッハがいい」
「とくにお気に入りのものは?」
「BWV846からBWV893」
天吾はしばらく考えてから言った。「『平均律クラヴィーア曲集』。第一巻と第二巻」
「そう」
「どうして番号で答えるの?」
「そのほうがおぼえやすい」
『平均律クラヴィーア曲集』は数学者にとって、まさに天上の音楽である。十二音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八曲。完全なサイクルがそこに形成される。
「ほかには?」
「BWV244」
BWV244が何だったか、天吾にはすぐに思い出せなかった。番号に覚えはあるのだが、曲名が浮かんでこない。
ふかえりは歌い始めた。
Bu?’ und Reu’
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Bu?’ und Reu’
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Knirscht das Sündenherz entzwei
Bu?’ und Reu’
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Bu?’ und Reu’
Knirscht das Sündenherz entzwei
Da? die Tropfen meiner Z?hren
Angenehme Spezerei
Treuer Jesu, dir geb?ren.
天吾はしばらく言葉を失っていた。音程はそれほど確かではないが、彼女のドイツ語の発音は明瞭で驚くばかりに正確だった。
「『マタイ受難曲』」と天吾は言った。「歌詞を覚えているんだ」
「おぼえていない」とその少女は言った。
天吾は何かを言おうとしたが、言葉が浮かんでこなかった。仕方なく手元のメモに目をやり、次の質問に移った。
「ボーイフレンドはいますか?」
ふかえりは首を振った。
「どうしていないの?」
「ニンシンしたくないから」
「ボーイフレンドがいても、妊娠する必要はないと思うけど」
ふかえりは何も言わなかった。何度か静かにまばたきをしただけだ。
「どうして妊娠したくないの?」
ふかえりはやはりただじつと口を閉ざしていた。天吾は自分がとても愚かしい質問をしたような気がした。
「もうやめよう」と天吾は質問のリストを鞄にしまいながら言った。「実際にどんな質問がくるかはわからないし、そんなものどうでも好きなように答えればいい。君にはそれができる」
「よかった」とふかえりは安心したように言った。
「インタビューの答えなんて、いくら準備したって無駄だと君は考えている」
ふかえりは小さく肩をすぼめた。
「僕も君の意見に賛成だ。僕だって好きでこんなことをやってるんじゃない。小松さんにやってくれと頼まれただけだよ」
ふかえりは肯いた。
「ただし」と天吾は言った。「僕が『空気さなぎ』の書き直しをしたことは、誰にも言わないでもらいたい。それはわかっているね?」
ふかえりは二度肯いた。「わたしがひとりでかいた」
「いずれにせよ、『空気さなぎ』は君ひとりの作品であって、ほかの誰の作品でもない。それは最初からはっきりしていることだ」
「わたしがひとりでかいた」とふかえりは繰り返した。
「僕が手を入れた『空気さなぎ』は読んだ?」
「アザミがよんでくれた」
「どうだった?」
「あなたはとてもうまくかく」
「それはつまり、気に入ったということなのかな?」
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