五月になって、小松から久しぶりに電話がかかってきた。夜の九時前だった。
「決まったぜ」と小松は言った。その声には興奮した響きがわずかにうかがえた。小松にしては珍しいことだ。
最初のうち小松が何を言っているのか、天吾にはうまく理解できなかった。「何のことですか?」
「何のことですかはないだろう。『空気さなぎ』の新人賞受賞がついさっき決まったんだよ。選考委員の全員一致だった。論争みたいなものはなかった。ま、当然のことだ。それだけの力のある作品だからね。しかし何はともあれ、ものごとは前に進み出したわけだ。こうなればあとは一蓮托生ってやつだな。お互いしっかりやろうぜ」
壁のカレンダーに目をやった。そういえば今日は新人賞の選考会の日だった。天吾は自分の小説を書くことに夢中になって、日にちの感覚をなくしていた。
「それで、これからどうなるんですか? つまり日程的に」と天吾は尋ねた。
「明日、新聞発表になる。全国紙に一斉に記事が出る。ひょっとしたら写真も出るかもしれない。十七歳の美少女、それだけでもかなりの話題にはなるだろう。こう言っちゃなんだが、たとえば冬眠明けの熊みたいな見かけの、三十歳の予備校数学講師が新人賞をとるのとでは、ニュース?バリューが違う」
「天と地ほど」と天吾は言った。
「五月十六日に新橋のホテルで授賞式がある。ここで記者会見が行われることになっている」
「ふかえりはそれに出席するんですか?」
「出ることになるだろう。この一回だけはね。新人文学賞の授賞式に受賞者が出席しないというわけにはいかないよ。それさえ大過なくこなせば、あとは徹底的に秘密主義をとる。申し訳ありませんが、作者は人前に出ることを好みません。その線でうまく押し切る。そうすれば<���傍点>ぼろ</傍点>は出てこない」
天吾はふかえりがホテルの広間で記者会見をするところを想像してみた。並んだマイク、たかれるフラッシュ。そんな光景はうまく想像できなかった。
「小松さん、記者会見を本当にやる気なんですか?」
「一度はやらなくちゃ格好がつかないからね」
「とんでもないことになりますよ、きっと」
「だから、とんでもないことにならないようにするのが、天吾くんの役目になる」
天吾は電話口で沈黙した。不吉な予感が暗い雲のように地平線に姿を見せていた。
「おい、そこにいるのか?」と小松が尋ねた。
「いますよ」と天吾は言った。「それはいったいどういう意味ですか? 僕の役目っていうのは?」
「だからさ、記者会見の傾向と対策みたいなことをふかえりにみっちり教え込むんだよ。そんなところで出てくる質問なんて、おおよそ似たようなものだ。だから予想される一連の質問に対する答えをあらかじめ用意しておいて、そいつを丸ごと覚えさせるんだ。君も予備校で教えているんだ。そのへんの要領はわかるだろう」
「それを僕がやるんですか?」
「ああ、そうだよ。ふかえりは君のことをなぜか信用している。君の言うことなら聞く。俺がやるのは無理だ。まだ会ってもくれないような状態だからな」
天吾はため息をついた。彼はできることなら『空気さなぎ』の問題とはきっぱり縁を切ってしまいたかった。言われたことはやったのだし、あとは自分の仕事に集中したかった。しかしそうすんなりとはいかないだろうという予感はあった。そして悪い予感というのは、良い予感よりずっと高い確率で的中する。
「あさっての夕方は時間があいているか?」と小松が尋ねた。
「空いてますよ」
「六時にいつもの新宿の喫茶店。ふかえりはそこにいる」
「ねえ小松さん、僕にはそんなことできませんよ。記者会見がどんなものかもよく知らないんです。そんなもの見たこともないんだから」
「君は小説家になりたいんだろう。だったら想像しろ。見たこともないものを想像するのが作家の仕事じゃないか」
「でも『空気さなぎ』の書き直しさえやれば、もう何もしなくていい。あとのことは俺にまかせて、ベンチに座ってのんびりゲームの続きを見てろ、と言ったのは小松さんじゃありませんか」
「天吾くん。俺にできることであれば、喜んで自分でやっているよ。俺だって人にものを頼むのは好きじゃない。しかしできないからこうして頭を下げているんじゃないか。急流を下るボートに喩{たと}えるなら、俺は今舵をとるのに忙しくて、両手がはなせないんだ。だから君にオールを渡している。もし君ができないというのであれば、ボートは転覆し、俺たちはみんなきれいに破滅するかもしれない。ふかえりをも含めて。そんなことになりたくないだろう」
天吾はもう一度ため息をついた。どうしていつもこう、断り切れない状況に追い込まれるのだろう。「わかりました。できるだけのことはやってみましょう。うまくいくかどうか保証はできませんが」
「そうしてくれ。恩に着るよ。なにしろふかえりって子は天吾くんとしか話をしないって決めているみたいだ」と小松は言った。「それからもうひとつ。俺たちは新しく会社を設立する」
「会社?」
「事務所、オフィス、プロダクション……名称はなんだっていい。とにかくふかえりの文筆活動を処理するための会社だ。もちろんペーパー?カンパニーだ。表向きには会社からふかえりに報酬が支払われることになる。代表は戎野先生になってもらう。天吾くんもその会社の社員になる。肩書きはまあなんだっていいだろう、とにかくそこから報酬を得る。俺も名前が表に出ないかたちでそこに加わる。俺が一枚噛んでいることがわかったら、それこそ問題になるからな。そのようにして利益を分配する。君は書類に何カ所か印鑑を押すだけでいい。あとは全部こちらでさらさらと処理する。知り合いに腕利きの弁護士がいるから」
天吾はそれについて考えた。「ねえ、小松さん、僕はそこから外してもらえませんか。報酬はいりません。『空気さなぎ』を書き直すのは楽しかった。そこからいろんなことを学べました。ふかえりが新人賞を取れて何よりだった。彼女が記者会見でうまくやれるように、できるだけ手筈を整えます。そこまでのことはなんとかやります。でもそんなややこしい会社には関わりたくないんです。それじゃ完全な組織的な詐欺ですよ」
「天吾くん、もう後戻りはできないんだ」と小松は言った。「組織的な詐欺? そういわれればたしかにそうかもしれない。そういう言い方もできるだろう。でもそんなことは君にも最初からわかっていたはずだ。ふかえりという半分架空の作家を俺たちでこしらえ上げて、世間をだまくらかすってのがそもそもの目論見だったんじゃないか。そうだろ? 当然そこには金が絡んでくるし、それを処理するための練れたシステムも必要になってくる。子供の遊びじゃないんだ。今さら『おっかないから、そんなことに関わりたくはありません。お金はいりません』なんて言いぶんは通用しないよ。ボートから降りるのなら、もっと前に、流れがまだ静かなうちに降りるべきだった。今となってはもう遅い。会社を設立するには、名義上の頭数が必要だし、ここで事情を知らない人間を引き入れるわけにはいかない。君にはどうしても会社に加わってもらわなくちゃならない。君をしっかり含めたかたちで、ものごとは進行しているんだ」
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