「わたしがかいたみたいだ」とふかえりは言った。
天吾はふかえりの顔を見た。彼女はココアのカップを持ち上げて飲んだ。彼女の美しい胸のふくらみに目をやらないようにするのに努力が必要だった。
「それを聞いて嬉しいよ」と天吾は言った。[『空気さなぎ』を書き直すのはすごく楽しいことだった。でももちろん苦労もした。『空気さなぎ』が<���傍点>君ひとりの作品である</傍点>という事実を損なわないようにするためにね。だからできあがった作品が君に気に入ってもらえるかどうかは、僕には大事なことだった」
ふかえりは黙って肯いた。そして何かを確かめるように、小さなかたちの良い耳たぶに手をやった。
ウェイトレスがやってきて、二人のグラスに冷たい水を注いだ。天吾はそれを一口飲んで、喉を潤した。そして勇気を出して、少し前から抱いていた考えを口にした。
「ひとつ個人的なお願いがあるんだ。もちろん君さえよければということだけど」
「どんなこと」
「できれば今日と同じかっこうで記者会見に出てもらえないかな」
ふかえりはよくわからないという顔をして天吾を見た。それから自分の着ている服をひとつひとつ確認した。まるで自分が何を着ているか今まで気がつかなかったみたいに。
「このフクをそこに着ていく」と彼女は質問した。
「そう。君が今着ている服をそのまま記者会見に着ていくんだ」
「どうして」
「よく似合っているから。つまり、胸のかたちがとてもきれいに出ているし、これはあくまで僕の予感に過ぎないけど、新聞記者はそっちの方につい目がいって、厳しい質問はあまりされないですむんじゃないかな。もしいやならかまわない。むりにそうしてくれと頼んでいるわけじゃないから」
ふかえりは言った。「フクはぜんぶアザミがえらぶ」
「君は選ばない?」
「わたしはなにをきてもかまわない」
「その今日の格好もアザミが選んだのかな?」
「アザミがえらんだ」
「でもそれはよく似合っているよ」
「このフクだとムネのかたちがいい」と彼女は疑問符抜きで質問した。
「そういうことだよ。なんというか、目立つ」
「このセーターとこのブラジャーのくみあわせがいい」
ふかえりにじつと目をのぞき込まれて、天吾は頬が赤くなるのを感じた。
「組み合わせまではよくわからないけど、とにかくそれがなんというか、良い結果をもたらすみたいだ」と彼は言った。
ふかえりはまだまじまじと天吾の目をのぞき込んでいた。そして真剣に尋ねた。「ついめがいってしまう」
「そう認めざるを得ない」と天吾は慎重に言葉を選んで答えた。
ふかえりはセーターの首のところをひっぱり、鼻を突っ込むようにして中をのぞいた。おそらく自分が今日どんな下着をつけているかを確認するために。それから天吾の紅潮した顔を、珍しいものでも見るみたいにしばらく眺めた。「いうとおりにする」としばらくあとで言った。
「ありがとう」と天吾は礼を言った。そして打ち合わせは終了した。
天吾はふかえりを新宿駅まで送った。多くの人は上着を脱いで通りを歩いていた。ノースリーブ姿の女性さえ見受けられた。人々のざわめきや、車の音がひとつに入り混じって、都会特有の開放的な音を作り上げていた。爽やかな初夏の微風が通りを吹き抜けていた。いったいどこから、こんな素敵な匂いのする風が新宿の街に吹いてくるのだろう。天吾は不思議に思った。
「これからあのうちまで戻るの?」と天吾はふかえりに尋ねた。電車は混んでいるし、家に戻りつくまでに途方もなく長い時間がかかる。
ふかえりは首を振った。「シナノマチにへやがある」
「遅くなるときはそこに泊まるんだね?」
「フタマタオはとおすぎるから」
駅まで歩くあいだ、ふかえりは前と同じように天吾の左手を握っていた。まるで小さな女の子が大人の手を握っているみたいに。しかしそれでも、彼女のような美しい少女に手を握られていると、天吾の胸は自然にときめいた。
ふかえりは駅に着くと、天吾の手を握るのをやめた。そして信濃町までの切符を自動販売機で買った。
「キシャカイケンはしんぽいすることない」とふかえりは言った。
「心配はしてないよ」
「しんぱいしなくてもうまくできる」
「わかってる」と天吾は言った。「何も心配してない。きっとうまくいくよ」
ふかえりは何も言わず、そのまま改札口の人混みの中に消えていった。
ふかえりと別れたあと、天吾は紀伊国屋書店の近くにある小さなバーに入ってジン?トニックを注文した。ときどき行くバーだった。古風な作りで、音楽がかかっていないところが気に入っていた。カウンターに一人で座り、何を思うともなく自分の左手をひとしきり眺めていた。ふかえりがさっきまで握っていた手だ。その手にはまだ少女の指の感触が残っていた。それから彼女の胸のかたちを思い浮かべた。きれいなかたちの胸だった。あまりにも端整で美しいので、そこからは性的な意味すらほとんど失われてしまっている。
そんなことを考えているうちに、天吾は年上のガールフレンドと電話で話をしたくなった。話題なんてなんでもいい。育児の愚痴だって、中曽根政権の支持率についてだって、なんだってかまわない。ただとりあえず彼女の声が無性に聞きたかった。できることなら、すぐにでもどこかで会ってセックスをしたかった。しかし彼女の家に電話をかけるわけにはいかない。夫が電話に出るかもしれない。子供が電話に出るかもしれない。彼の方からは電話をかけない。それが二人のあいだのきまりごとだった。
天吾はジン?トニックをもう一杯注文し、それを待っているあいだ、自分が小さなボートに乗って急流を下っているところを想像した。「滝の上から落ちるときは、一緒に派手に落ちよう」と小松は電話で言った。しかし彼の言いぶんをそのまま信用していいものだろうか? 滝の直前まで来たら、小松はひとりで手近にある岩場にすっと飛び移ってしまうのではないだろうか。
「天吾くん、悪いな。ちょっと済ませなくちゃならない用事を思い出した。あとはなんとか頼むぜ」みたいなことを言い残して。そして逃げ切れずに滝から派手に落ちるのは自分ひとりだけ、ということになるかもしれない。あり得ないことではない。いや、十分に起こり得ることだ。
家に帰って眠りにつき、夢を見た。久しぶりに見たくっきりとした夢だった。自分が巨大なパズルの中のひとつのちっぽけなピースになった夢だ。でも彼は固定されたピースではなく、刻々とかたちを変え続けるピースだった。だからどこの場所にもうまく収まらない。当然の話だ。おまけに自分の場所を見つける作業と並行して、与えられた時間の中でティンパニのためのパート譜を拾い集めなくてはならなかった。その楽譜は強い風に吹かれて、あちこちにまき散らされていた。彼はそれを一枚一枚集めていった。そしてページ番号を確認し、順番どおりにまとめなくてはならなかった。そうするあいだも彼自身はアメーバのようにかたちを変え続けていた。事態は収拾がつかなくなっていた。やがてふかえりがどこかからやってきて彼の左手を握った。そうすると天吾はかたちを変えることをやめた。風も急にやんで、楽譜はもう散らばらなくなった。よかった、と天吾は思った。しかしそれと同時に与えられた時間も終わりを迎えようとしていた。
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