「恋人と一緒に見たの?」
「そういうことだ」とタマルは言った。そして鼻の脇に指をやった。「それで月がどうかしたのか?」
「どうもしない」と青豆は言った。そして言葉を選んだ。「ただ最近、どうしてか月のことが気にかかるの」
「理由もなく?」
「とくに理由もなく」と青豆は答えた。
タマルは黙って肯いた。彼は何かを推し測っているようだった。この男は理由を欠いたものごとを信用しないのだ。しかしそれ以上は追及せず、いつものように前に立って青豆をサンルームに案内した。老婦人はトレーニング用のジャージの上下に身を包み、読書用の椅子に座り、ジョン?ダウランドの器楽合奏曲『ラクリメ』を聴きながら本を読んでいた。彼女の愛好する曲だった。青豆も何度も聴かされて、そのメロディーを覚えていた。
「昨日の今日でごめんなさいね」と老婦人は言った。「もっと早くアポイントメントを入れられるとよかったんだけど、ちょうどこの時間がぽっかり空いたものだから」
「私のことなら気になさらないでください」と青豆は言った。
タマルがハーブティーを入れたポットを、トレイに載せて持ってきた。そして二つの優雅なカップにお茶を注いだ。タマルは部屋を出て、ドアを閉め、老婦人と青豆はダウランドの音楽を聴き、燃え立つように咲いた庭のツツジの花を眺めながら、静かにそのお茶を飲んだ。いつ来ても、ここは別の世界のようだと青豆は思った。空気に重みがある。そして時間が特別な流れ方をしている。
「この音楽を聴いているとときどき、時間というものについて、不思議な感慨に打たれることがあります」と老婦人は青豆の心理を読んだように言った。「四百年前の人々が、今私たちが聴いているのと同じ音楽を聴いていたということにです。そういう風に考えると、なんだか妙な気がしませんか?」
「そうですね」と青豆は言った。「でもそれを言えば、四百年前の人たちも、私たちと同じ月を見ていました」
老婦人は少し驚いたように青豆を見た。それから肯いた。「たしかにそうね。あなたの言うとおりだわ。そう考えれば、四世紀という時を隔てて同じ音楽を聴いていることに、とくに不思議はないのかもしれない」
「<���傍点>ほとんど</傍点>同じ月と言うべきかもしれませんが」
青豆はそう言って老婦人の顔を見た。しかし彼女の発言は老婦人に何の感興ももたらさなかったようだった。
「このコンパクト?ディスクの演奏も古楽器演奏です」と老婦人は言った。「当時と同じ楽器を使って、当時の楽譜通りに演奏されています。つまり音楽の響きは当時のものとおおむね同じだということです。月と同じように」
青豆は言った。「ただ<���傍点>もの</傍点>が同じでも、人々の受け取り方は今とはずいぶん違っていたかもしれません。当時の夜の闇はもっと深く、暗かったでしょうし、月はそのぶんもっと明るく大きく輝いていたことでしょう。そして人々は言うまでもなく、レコードやテープやコンパクト?ディスクをもっていませんでした。日常的にいつでも好きなときに、音楽がこのようなまともなかたちで聴けるという状況にはありませんでした。それはあくまでとくべつなものでした」
「そのとおりね」と老婦人は認めた。「私たちはこのように便利な世の中に住んでいるから、そのぶん感受性は鈍くなっているでしょうね。空に浮かんだ月は同じでも、私たちはあるいは別のものを見ているのかもしれない。四世紀前には、私たちはもっと自然に近い豊かな魂を持っていたのかもしれない」
「しかしそこは残酷な世界でした。子供たちの半分以上は、慢性的な疫病や栄養不足で成長する前に命を落としました。ポリオや結核や天然痘や麻疹{はしか}で人はあっけなく死んでいきました。一般庶民のあいだでは、四十歳を超えた人はそんなに多くはいなかったはずです。女はたくさんの子供を産み、三十代になれば歯も抜け落ちて、おばあさんのようになっていました。人々は生き延びるために、しばしば暴力に頼らなくてはならなかった。子供たちは小さいときから、骨が変形してしまうくらいの重い労働をさせられ、少女売春は日常的なことでした。あるいは少年売春も。多くの人々は感受性や魂の豊かさとは無縁の世界で最低限の暮らしを送っていました。都市の通りは身体の不自由な人々と乞食と犯罪者とで満ちていました。感慨をもって月を眺めたり、シェイクスピアの芝居に感心したり、ダウランドの美しい音楽に耳を澄ますことのできるのは、おそらくほんの一部の人だけだったでしょう」
老婦人は微笑んだ。「あなたはずいぶん興味深い人ね」
青豆は言った。「私はごく普通の人間です。ただ本を読むのが好きなだけです。主に歴史についての本ですが」
「私も歴史の本を読むのが好きです。歴史の本が教えてくれるのは、私たちは昔も今も基本的に同じだという事実です。服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。人間というものは結局のところ、遺伝子にとってのただの乗り物{キャリア}であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が<���傍点>自分たちにとって</傍点>いちばん効率的かということだけです」
「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけにはいかない。そういうことですか?」
老婦人は肯いた。「そのとおりです。人間はそれについて考えないわけにはいかない。しかし私たちの生き方の根本を支配しているのは遺伝子です。当然のことながら、そこに矛盾が生じることになります」、彼女はそう言って微笑んだ。
歴史についての会話はそこで終わった。二人は残っていたハーブティーを飲み、マーシャル?アーツの実習に移った。
その日は屋敷の中で簡単な食事をした。
「簡単なものしか作れないけれど、それでいいかしら?」と老婦人は言った。
「もちろんかまいません」と青豆は言った。
食事はタマルがワゴンに載せて運んできた。料理を作るのはおそらく専門の料理人なのだろうが、運んで給仕するのは彼の役目だった。彼はアイスバケツに入れた白ワインを抜き、慣れた手つきでグラスに注いだ。老婦人と青豆はそれを飲んだ。香りがよく、冷え加減もちょうどいい。料理は茄でた白色のアスパラガスと、ニソワーズ?サラダと、蟹肉を入れたオムレツだけだった。それにロールパンとバター。どれも食材が新鮮でおいしかった。量も適度に十分だった。いずれにせよ、老婦人はいつもほんの少ししか食事をとらない。彼女はフォークとナイフを優雅に使って、まるで小鳥のように少しずつの量を口に運んだ。そのあいだタマルはずっと、部屋のいちばん遠いところに控えていた。彼のような濃密な体つきの男が、長い時間にわたって気配をすっかり消してしまえるのは驚くべきことで、青豆はいつもそのことに感心させられた。
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