どれほど長く考えていたのだろう。深く考えに耽っているうちに、時間の感覚がどこかで失われてしまったようだ。心臓だけが硬く一定のリズムを刻んでいた。青豆は自分の中にあるいくつかの小部屋を訪れ、魚が川を遡るように時間を遡った。そこには見慣れた光景があり、長く忘れていた匂いがあった。優しい懐かしさがあり、厳しい痛みがあった。どこかから入ってきた一筋の細い光が、青豆の身体を唐突に刺し貫いた。まるで自分が透明になってしまったような不思議な感覚があった。手をその光にかざしてみると、向こう側が透けて見えた。身体が急に軽くなったようだった。そのときに青豆は思った。今ここで狂気なり偏見なりに身を任せ、それで自分の身が破滅したところで、この世界がすっかり消えてなくなったところで、失うべきいったい何が私にあるだろう。
「わかりました」と青豆は言った。しばらく唇を噛んでから、また口を開いた。「私にできることがあれば、お手伝いしたいと思います」
老婦人は両手を伸ばし、青豆の手を握りしめた。それ以来、青豆は老婦人と秘密を分かち合い、使命を、そして狂気に似た<���傍点>何か</傍点>を共にすることにな,った。いや、それはまったくの狂気そのものなのかもしれない。しかしその境界線がどこにあるのか、青豆には見きわめることができない。それに彼女が老婦人と共に遠い世界に送り込んだのは、どのような見地から見ても慈悲を与える余地を見いだせない男たちだった。
「この前あなたが渋谷のシティー?ホテルで、例の男を<���傍点>別の世界</傍点>に移してから、まだあまり時間は経っていません」と老婦人は静かに言った。「別の世界に移す」と彼女が言うと、まるで家具の移動の話でもしているみたいに聞こえた。
「あと四日でちょうど二ヶ月になります」と青豆は言った。
「まだ二ヶ月足らずです」と老婦人は続けた。「ですから、あなたにここで次の作業をお願いするというのは、どうみても好ましいことではありません。少なくとも半年は間隔を置きたいところです。間隔が詰まりすぎると、あなたの精神的な負担が大きくなります。なんと言えばいいのかしら——普通のことではないから。それに加えて、私の運営するセーフハウスに関わりのある男たちが心臓発作で亡くなる確率が、いささか高すぎるのではないかと首をひねる人がそのうちに出てくるかもしれません」
青豆は小さく微笑んだ。そして言った。「世間には疑り深い人が多いから」
老婦人も微笑んだ。「ご存じのように、私はきわめて慎重な人間です。偶然や見込みや幸運といったものをあてにしません。最後の最後までより穏やかな可能性を模索し、可能性がどうしてもないと判明したときにだけそれを選択します。そしてやむを得ず<���傍点>それ</傍点>を行うときには、考え得るあらゆるリスクを排除します。すべての要素を丹念に綿密に検討し、準備万端を整え、これで大丈夫と確信してからあなたにお願いします。ですからこれまでのところ、問題らしきものはひとつも起きていません。そうですね?」
「そのとおりです」と青豆は認めた。まさにそのとおりだった。道具を用意して指定された場所に足を運ぶ。状況は前もって念入りに設定されている。彼女は相手の首の後ろの決まったポイントに、鋭利な針を一度だけ打ち込む。そして相手が「別の場所に移動した」ことを確認してからそこを立ち去る。これまでのところすべては円滑にシステマチックに運ばれてきた。
「しかし今回の相手について言えば、心苦しいことですが、あなたにいくらか無理をお願いしないわけにはいかないようです。日程も十分に熟していませんし、不確定要素が多く、これまでのような整った状況を提供できない可能性があります。いつもとは少しばかり事情が違うのです」
「どんな風に違うのでしょう?」
「相手は普通の立場の男ではありません」と老婦人は慎重に言葉を選んで言った。「具体的に言えば、まず警護が厳しいのです」
「政治家か何かですか?」
老婦人は首を振った。「いいえ、政治家ではありません。それについてはまたあとで話をしましょう。あなたを送り込まずに済む方法についても、ずいぶん考慮してみました。しかしどれをとってもうまく行きそうにありません。普通のやり方ではどうにも歯が立たないのです。申し訳ないけれど、あなたにお願いする以外に方法を思いつけませんでした」
「急を要する作業なのですか?」と青豆は尋ねた。
「いいえ、急を要するというのではありません。いついつまでにという期限があるわけでもありません。しかし遅くなれば、それだけ傷つく人が増えるかもしれません。そして私たちに与えられたチャンスは限定されたものです。次にいつそれが巡ってくるかも予測がつきません」
窓の外はすっかり暗くなり、サンルームは沈黙に包まれていた。月は出ているのだろうか、と青豆は思った。しかし彼女の座った場所からは外が見えなかった。
老婦人は言った。「事情はできる限り詳しく説明するつもりです。でもその前にあなたに会ってもらいたい人がいます。これから二人で彼女に会いに行きましょう」
「その人はこのハウスで生活しているのですか?」と青豆は尋ねた。
老婦人はゆっくりと息を吸い込み、喉の奥で小さな音を立てた。その目にはいつもは見受けられない特別な光が浮かんでいた。
「六週間前に相談所からここに送られてきました。四週間はひとことも口をきかず、放心状態というか、とにかくすべての言葉を失っていました。わかったのは名前と年齢だけ、ひどい格好で駅に寝泊まりしているところを保護され、あちこちたらい回しにされた末に、うちに送られてきたのです。私が時間をかけて少しずつ話をしました。ここは安全なところで、怯える必要はないのだとわからせるまでに時間がかかりました。今では、いくらか口をきくようになりました。混乱した細切れな話し方ですが、断片を組み合わせると、何が起こったのかおおよそ理解できました。とても口に出せないようなひどいことです。いたましいことです」
「やはり夫からの暴力なのですか?」
「いいえ」と老婦人は乾いた声で言った。「彼女はまだ十歳です」
老婦人と青豆は二人で庭を抜け、鍵を開けて小さな木戸をくぐり、隣地にあるセーフハウスに向かった。こぢんまりとした木造アパートで、昔、屋敷で働く使用人がもっと沢山いた頃、主にそのような人々の住居として使われていた。二階建てで、建物自体には趣があるのだが、住居として一般に貸すにはいくぶん老朽化している。しかし行き場所のない女性たちのとりあえずの避難場所としては不足はなかった。古い樫の木が建物を護るように枝を大きく広げ、玄関のドアには美しい図柄の型板ガラスが入っていた。部屋は全部で十あった。混んでいる時期もあり、すいている時期もあったが、だいたいは五人か六人の女たちがそこでひっそりと暮らしていた。今は半分ほどの部屋の窓に明かりがついている。ときおり小さな子供たちの声が聞こえるほかは、いつも奇妙なほど静まりかえっている。まるで建物自体が息を潜めているみたいにも見える。生活につきものの雑多な物音がそこにはない。門の近くに雌のドイツ?シェパードが一匹繋がれていて、人が近寄ると低くうなり、それから何度か吠えた。誰がどのような方法で訓練したのかはわからないが、犬は男が近寄ると激しく吠えるようにしつけられていた。それでも犬がもっともなついているのはタマルだった。
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