老婦人はテーブル越しに手を伸ばした。少女は少し考えてから、膝の上に置いていた手をあげ、老婦人の手の上に重ねた。老婦人は少女の手を握った。18老婦人もおそらくは少女時代、パリの街角で棺を積み重ねた馬車とすれ違うとき、父親か母親に同じようにしっかりと手を握られたのだろう。そして何も心配することはないと励まされたのだろう。大丈夫、お前は安全な場所にいる、何もおそれなくていいのだ、と。
「男たちは毎日数百万匹の精子をつくります」と老婦人は青豆に言った。「そのことは知っていましたか?」
「細かい数は知りませんが」と青豆は言った。
「端数まではもちろん私も知りません。とにかく無数です。彼らはそれを一度に送り出します。しかし女性が送り出す成熟した卵子の数は限られています。いくつか知っていますか?」
「正確には知りません」
「生涯を通しても約四百個に過ぎません」と老婦人は言った。「卵子は月々新しくつくられるわけではなく、それは生まれたときから女性の体内にそっくり蓄えられています。女性は初潮を迎えたあと、それを月にひとつずつ成熟させ外に出していくのです。この子の中にもそんな卵子が蓄えられています。まだ生理は始まっていませんから、ほとんど手つかずであるはずです。引き出しの中にしっかりと納められているはずです。それらの卵子の役目は言うまでもなく、精子を迎え入れて受胎することです」
青豆は肯いた。
「男性と女性のメンタリティーの違いの多くは、このような生殖システムの差違から生まれているようです。私たち女性は、純粋に生理学的見地から言えば、限定された数の卵子を護ることを主題として生きているのです。あなたも、私も、この子も」、そして彼女は淡い微笑みを口元に浮かべた。「私の場合はもちろん、<���傍点>生きてきた</傍点>と過去形になりますが」
私はこれまで既にざっと二百個の卵子を排出したことになる、と青豆は頭の中で素早く計算した。だいたいあと半分が私の中に残っている。おそらくは「予約済み」という札を貼られて。
「しかし彼女の卵子が受胎をすることはありません」と老婦人は言った。「先週、知り合いの医師に検査をしてもらいました。彼女の子宮は破壊されています」
青豆は顔をゆがめ、老婦人を見た。それから小さく首を曲げて少女に目をやった。言葉はなかなか出てこなかった。「破壊された?」
「そうです。破壊されたのです」と老婦人は言った。「手術をしても、もとに戻ることはありません」
「いったい誰がそんなことを?」と青豆は言った。
「はっきりしたことはまだわかりません」と老婦人が言った。
「リトル?ピープル」と少女が言った。
第18章 天吾
もうビッグ?ブラザーの出てくる幕はない
記者会見のあと小松が電話をかけてきて、すべては支障なく円滑に運んだと言った。
「見事な出来だよ」と小松は珍しく興奮した口調で言った。「いや、あれほどそつなくこなすとは思わなかったね。スマートな受け答えだったし、居合わせた全員に好印象を与えた」
小松の話を聞いても、天吾は決して驚かなかった。とくにこれという根拠もないのだが、天吾は記者会見についてはそれほど心配していなかった。彼女はそれくらい自分一人でうまくこなすだろうと予想していた。しかし「好印象」という表現には、何かしらふかえりにそぐわない響きがあった。
「ぼろは出なかったんですね?」と天吾は念のために尋ねた。
「ああ、時間をなるたけ短くして、具合の悪そうな質問は手際よくはぐらかした。それに実際のところ、<���傍点>きつい</傍点>質問はほとんどなかったよ。相手はなにしろいかにも可憐な十七歳の女の子だからね、新聞記者だって好んで悪役にはまわりたくないさ。もちろん『少なくとも今のうちは』という注釈付きだけどな。先がどうなるかはわからん。この世界では風向きなんてあっという間に変わっちまう」
小松が真剣な顔をして高い崖の上に立ち、指を舐めて風向きを測っている光景を天吾は思い浮かべた。
「いずれにせよこれというのも、天吾くんがあらかじめ予行演習をしてうまく仕込んでくれたおかげだ。感謝するよ。受賞の報道と記者会見の模様は、明日の夕刊に出るはずだ」
「ふかえりはどんな服を着ていました?」
「服? 普通の服だよ。ぴったりした薄手のセーターにジーンズだ」
「胸が目立つやつ?」
「ああ、そういえばそうだった。胸の形がきれいに出ていた。まるで<���傍点>できたて</傍点>のほかほかみたいに見えた」と小松は言った。「なあ、天吾くん、あの子は天才少女作家としてずいぶん評判になるぞ。ルックスもいいし、しゃべり方はいささかへんてこだが、なかなかどうして頭も切れる。何より人並みじゃない空気を持っている。俺はこれまでたくさんの作家のデビューに立ち会ってきた。しかしあの子はとくべつだ。俺がとくべつだというとき、それはほんとにとくべつなんだよ。一週間後に『空気さなぎ』を掲載した雑誌が店頭に並ぶことになるわけだが、何を賭けてもいい。左手と右脚を賭けてもいい。三日のうちに雑誌は売り切れるよ」
天吾はわざわざ知らせてくれた礼を言って、電話を切った。そしていくらかほっとした。何はともあれ、これで少なくとも第一の関門はクリアできたわけだ。いったいいくつの関門がそのあとに待ち受けているのか、見当もつかないけれど。
記者会見のもようは翌日の夕刊に掲載された。天吾は予備校の仕事の帰りに、駅の売店で四紙の夕刊を買い、うちに帰って読み比べてみた。どの新聞もだいたい似たような内容だった。それほど長い記事ではなかったが、文芸誌の新人賞の報道としては破格の扱いだった(ほとんどの場合、それらは五行以内で処理される)。小松の予想どおり、十七歳の少女が受賞したということで、メディアが飛びついてきたのだ。記事には、四人の選考委員は全員一致で彼女の『空気さなぎ』を受賞作に選んだと書かれていた。論議のようなものは一切なく、選考会は十五分で終了した。それはきわめて珍しいことだった。我の強い現役作家が四人集まって、全員の意見がぴたりと一致するなど、まずあり得ないことだ。その作品は既に業界でちょっとした評判になっていた。授賞式のあったホテルの一室で小規模の記者会見が開かれ、彼女が記者たちの質問に対して「にこやかに明瞭に」答えた。
「これからも小説を書き続けたいですか?」という質問に対して彼女は「小説は考えをあらわすためのひとつのかたちにすぎません。今回それはたまたま小説というかたちをとったけれど、次にどんなかたちをとるのか、それはわからない」と答えていた。ふかえりが本当にそんなに長いセンテンスを一度にまとめてしゃべったとは考えがたい。おそらく記者が彼女の細切れのセンテンスをうまくつなぎ合わせ、抜けた部分を適当に埋め、ひとつにまとめたのだろう。しかし実際にこんな風に長くまとめてしゃべったのかもしれない。ふかえりについて確実に言えることなんて何ひとつないということだ。
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