天吾は二人と向かい合った席に座り、コーヒーを注文した。まだ梅雨の前なのに、夏の盛りを思わせるような暑い日だった。それでもふかえりは前と同じように温かいココアをちびちびと飲んでいた。戎野先生はアイスコーヒーをとっていたが、口はつけていなかった。氷が溶けて、上の方に水の透明な層を作っていた。
「よく来てくれた」と戎野先生は言った。
コーヒーが運ばれてきて、天吾はそれに口をつけた。
「いろんなものごとが、今のところ順調に運んでいるようだ」と戎野先生は声の調子をテストしているみたいに、ゆっくりとした口調で言った。「君の功績は大きい。まことに大きい。まずそのお礼を言わなくてはならない」
「そう言っていただけるのはありがたいですが、今回の件に関しては、ご存じのように、僕は公式には存在しない人間です」と天吾は言った。「公式に存在しない人間に功績なんてものはありません」
戎野先生は暖でも取るように、テーブルの上で両手をこすり合わせた。
「いや、そこまで謙遜することはないだろう。建前はともかく、現実には君はしっかり存在している。君がいなかったら、ものごとはここまですらすらと運ばなかったはずだ。君のおかげで『空気さなぎ』は遥かに優れた作品になった。私の予想を超えて深い豊かな内容を持つものになった。さすがに小松君には人を見る目がある」
ふかえりはその隣りでミルクをなめる子猫のように、黙ってココアを飲み続けていた。シンプルな白い半袖のブラウスに、短めの紺のスカートをはいていた。いつものように装身具は一切つけていない。前屈みになるとまっすぐな長い髪の中に顔が隠された。
「是非そのことを直接に伝えたかった。だからわざわざここまでご足労を願った」と戎野先生は言った。
「そんなことは気にしていただかなくてかまいません。僕にとっても『空気さなぎ』を書き直すのは意味のある作業でした」
「君にはあらためてお礼をしなくてはならないと思っている」
「お礼のことはどうでもいいです」と天吾は言った。「ただエリさんに関して、個人的なことを少しうかがってもかまわないでしょうか?」
「もちろん。私に答えられることなら」
「戎野先生はエリさんの正式な後見人になっておられるのですか?」
先生は首を振った。「いや、正式な後見人というのではない。できることならそうなりたいとは思っている。しかし前にも言ったとおり、彼女の両親とまったく連絡がつかない状態になっている。法的なことを言えば、私は彼女に関して何の権利も有していない。七年前にうちにやってきたエリを引き取って、そのまま育てているというだけのことだ」
「だとしたら、先生としてはエリさんの存在をそっとしておきたいと思われるのが普通ではないのですか? 彼女がこんな風に派手な脚光を浴びると、トラブルが起きかねません。まだ未成年ですし」
「たとえば彼女の両親が訴えを起こし、エリの身柄を引き取りたいと言い出せば、面倒な事態になるのではないか。せっかく逃げ出してきたところに、強制的にまた連れ戻されるのではないか。そういうことだね?」
「そうです。そこのところが僕にはもうひとつ解せないんです」
「当然な疑問だ。しかし向こうの方にも、それほど表だって動きをとれない事情がある。エリが世間の脚光を浴びれば浴びるほど、彼らがエリに関して何か行動を起こすと、世間の耳目を引くことになる。それは彼らが最も望んでいないことなのだ」
「<���傍点>彼ら</傍点>」と天吾は言った。「おっしゃっているのは、『さきがけ』のことですね?」
「そのとおり」と先生は言った。「宗教法人『さきがけ』のことだ。私にもエリをこうして七年間育ててきた実績がある。エリ自身もこのままうちに留まることをはっきり望んでいる。そしてエリの両親はたとえどんな事情があるにせよ、なにしろこの七年間、彼女を放ったらかしにしてきたんだ。簡単に<���傍点>はいそうですか</傍点>と引き渡すことはできないよ」
天吾は頭の中を整理した。それから言った。
「『空気さなぎ』は予定通りベストセラーになる。エリさんは世間の関心を集める。そうなると逆に『さきがけ』も簡単には動けなくなる。そこまではわかりました。それで戎野先生の<���傍点>つもり</傍点>では、これから先どのように話が進んでいくのですか?」
「それは私にもわからん」と戎野先生は淡々と言った。「ここから先は誰にとっても未知の領域だ。地図はない。次の角を曲がったところに何が待ち受けているか、曲がってみなくてはわからん。見当もつかない」
「見当もつかない?」と天吾は言った。
「そう、無責任に聞こえるかもしれないが、<���傍点>見当もつかない</傍点>というところが、まさにこの話の骨子なんだ。深い池に石を放り込む。どぼん。大きな音があたりに響き渡る。このあと池から何が出てくるのか、私たちは固唾を呑んで見守っている」
しばらく全員が黙っていた。三人はそれぞれに、水面に広がっていく波紋を思い浮かべていた。天吾はその架空の波紋が落ち着くのを見計らって、おもむろに口を開いた。
「最初にも申し上げたことですが、今回我々がやっているのは、一種の詐欺行為です。反社会的な行為と言ってしまっていいかもしれません。この先、おそらく少なくない額の金銭もかかわってくるでしょうし、嘘は雪だるま式に膨らんでいきます。嘘が嘘を呼んで、嘘と嘘との間の関係性がますますややこしいものになり、たぶん最終的には誰の手にも負えないものになってしまうことでしょう。そして内情が露見したときには、これに関わった全員が、このエリさんをも含めて、何らかの被害を被るし、悪くすれば破滅します。社会的に葬り去られるかもしれない。それには同意していただけますね?」
戎野先生は眼鏡の縁に手をやった。「同意せざるを得ないだろうね」
「それなのに先生は、小松さんの話によれば、彼が『空気さなぎ』がらみででっちあげる会社の代表になろうとしています。つまり小松さんの計画に正面から関与しようとしている。言い換えれば、進んで泥をかぶるつもりでおられるようです」
「結果的にはそういうことになるかもしれない」
「僕が理解するかぎり、戎野先生は優れた知性を具え、広い常識と独自の世界観を身につけた方です。なのに、この計画の行く先がわからないでいる。次の角を曲がったら何が出てくるか予測できないと言う。先生のような人が、どうしてそんな不確かな、わけのわからない場所に身を置くことができるのか、僕にはそこがよく理解できないんです」
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