「過分の評価を頂いてまことに恐縮だが、それはそれとして——」、戎野先生はそう言って一息置いた。「君の言わんとすることはよくわかる」
沈黙があった。
「なにがおこるのかだれにもわからない」とふかえりがそこで突然口を挟んだ。そしてまたもとの沈黙の中に戻っていった。ココアのカップはもう空になっていた。
「そのとおり」と先生は言った。「何が起こるのかは誰にもわからない。エリの言うとおりだ」
「でもある程度の目論見のようなものはあるはずです」と天吾は言った。
「ある程度の目論見はある」と戎野先生が言った。
「その目論見を推測してかまいませんか?」
「もちろん」
「『空気さなぎ』という作品を世に出すことで、エリさんの両親の身に何が起こったのか、真相が暴かれるかもしれない。それが池に石を放り込むことの意味ですか?」
「君の推測はおおむね正しい」と戎野先生は言った。「『空気さなぎ』がベストセラーになれば、メディアが池の鯉のように一斉に集まってくる。実を言えば、今だってすでにけっこうな騒ぎになっているんだ。記者会見以来、雑誌やテレビから取材の申し込みが殺到している。もちろん全部断っているが、これから本の出版に向けて事態はさらに過熱していくはずだ。こちらが取材に応じないとなると、彼らはあらゆる手を使ってエリの生い立ちを調べ上げるだろう。そしてエリの素性は早晩暴かれる。両親が誰か、どこでどんな育ち方をしたか。そして今、誰が彼女の面倒を見ているか。それは興味深いニュースになるはずだ。
私だって好きこのんでこんなことをしているわけじゃない。今の私は山の中で気楽な生活を送っている。今さら世間の耳目を引くようなことに関わり合いたくはない。そんなことをしても一文の得にもならん。しかし私としては、うまく餌をまいて、メディアの関心をエリの両親の方に誘導できればと考えている。<���傍点>彼らはどこで何をしているのか</傍点>、というところにね。つまり警察にできないことを、あるいはやる気のないことを、メディアに肩代わりしてもらうわけだ。うまくいけばその流れを利用して二人を救出できるかもしれないとも考えている。とにかく深田夫婦は私にとっても、それからもちろんエリにとってもきわめて大事な存在だ。消息不明のまま放置しておくわけにはいかない」
「しかしもし深田夫妻がそこにいるとして、いったいどのような理由で七年間も拘束されなくてはならないのでしょう? それはあまりにも長い歳月です」
「私にもそれはわからん。あくまで推測するしかない」と戎野先生は言った。「このあいだも言ったように、革命的な農業コミューンとして始まった『さきがけ』は、ある時点で武闘派集団『あけぼの』と快を分かち、コミューン路線を大幅に変更し、宗教団体に姿を変えた。『あけぼの』事件に関連して教団の中に警察の捜査が入ったが、事件とはまったく無関係だということがわかっただけだ。それ以来教団は着々と地歩を固めてきた。いや、着々というよりむしろ急速にというべきだろうな。とはいえ、彼らの活動の実体は世間にはほとんど知られていない。君だって知るまい」
「まったく何も知りません」と天吾は言った。「僕はテレビも見ないし、新聞もろくに読まないので、あまり世間の基準にはならないと思いますが」
「いや、知らないのは何も君だけじゃない。彼らはできるだけ世間に知られないようにひっそりと行動しているんだ。ほかの新興の宗教団体は目立つことをして、少しでも信者を増やそうとしているが、『さきがけ』はそんなことはしない。彼らの目的は信者を増やすことにはないからだ。一般の宗教団体が信者の数を増やそうとするのは、収入を安定させるためだが、『さきがけ』にはどうやらそんな必要もないらしい。彼らが求めているのは金銭よりはむしろ人材だ。目的意識が高く、様々な種類の専門的な能力を持つ、健康で年若い信者だ。だから無理に信者を勧誘したりはしない。誰でも受け入れるというのでもない。入れてくれとやってきた人々の中から、面接して選抜する。あるいは能力のあるものをリクルートする。その結果、士気の高い、良質で戦闘的な宗教団体ができあがった。彼らは表向きには農業を営みつつ、厳しい修行に励んでいる」
「いったいどのような教義に基づいた宗教団体なのですか?」
「決まった教典はおそらくない。あっても折衷的なものだろう。大まかに言えば密教系の団体で、細かい教義よりはむしろ、労働と修行が彼らの生活の中心になっている。それもかなり厳しいものだ。生半可なものではない。そのような精神生活を求める若い連中が、評判を聞きつけて全国から集まってくる。結束は固く、外部に対しては秘密主義を貫いている」
「教祖はいるのですか?」
「表向きには教祖は存在しない。個人崇拝を排し、集団指導で教団の運営にあたっていることになっている。しかし内情は明らかにされていない。私もできるだけ情報を集めているんだが、塀の外に漏れ出てくる情報の量はきわめて少ない。ただひとつ言えることは、教団は着実に発展しているし、資金は潤沢らしいということだ。『さきがけ』の所有する土地はより広くなり、施設はますます充実している。その土地を囲む塀もより強固なものになった」
「そして『さきがけ』のもともとのリーダーであった深田さんの名前は、いつの間にか表面から消えてしまった」
「そのとおり。すべてが不自然だ。納得もいかない」と戎野先生は言った。ふかえりの顔に少し目をやり、それからまた天吾を見た。「『さきがけ』には何か大きな秘密が隠されている。ある時点で『さきがけ』の中で地殻変動のようなことが起こったに違いない。どんなことだかはわからん。しかしそれによって『さきがけ』は農業コミューンから宗教団体へと大きく方向転換した。そしてそれを境に、世間に対して開かれた穏健な団体から、きわめて秘密主義的な態度を取る厳格な団体に豹変した。
その時点で『さきがけ』内部で、クーデターのようなことが持ち上がったのではないかと私は想像しているんだ。そして深田がそれに巻き込まれたのではないかと。前にも言ったように、深田は宗教的な傾向など露ほども持ちあわせない人物だ。徹底した唯物論者だ。自分のこしらえた共同体が宗教団体に路線変更しようとするのを前にして、手をこまねいているような男じゃない。全力を用いてそんな流れを阻止しようとするはずだ。彼はおそらくそのとき『さきがけ』内部の主導権{ヘゲモニー}争いに敗れたのではあるまいか」
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