「小さい頃にいたずらされたせいで、そういう世間並みの手順がうまく踏めなくなったということ?」
「そういう気がしたんだ」とあゆみは言った。そして小さく肩をすぼめた。「私自身のことを言えばね、男の人が怖いんだよ。というか、特定の誰かと深いところで関わり合うことがね。そして相手のそっくり全部を引き受けたりすることが。考えるだけで身がすくんじゃう。でも一人でいるのは時としてきつい。男の人に抱かれて、入れられたい。我慢できなくなるくらい<���傍点>したく</傍点>なる。そういうときにはまったく知らない人の方がラクなんだ。ずっと」
「恐怖心?」
「うん、そいつが大きいと思うな」
「男の人に対する恐怖心みたいなものは、私にはないと思う」と青豆は言った。
「ねえ、青豆さんには何か怖いものがある?」
「もちろんある」と青豆は言った。「私には自分自身がいちばん怖い。自分が何をするかわからないということが。自分が今何をしているのかよくわからないことが」
「青豆さんは今<���傍点>何をしている</傍点>の?」
青豆は自分が手にしているワイングラスをしばらく眺めた。「それがわかればいいんだけど」と青豆は顔を上げて言った。「でも私にはわからない。今いったい自分がどの世界にいるのか、どの年にいるのか、それすら自信がもてない」
「今は一九八四年で、場所は日本の東京だよ」
「あなたみたいに、確信をもってそう断言できればいいんだけど」
「変なの」とあゆみは言って笑った。「そんなの自明の事実であって、今さら確信も断言もないじゃん」
「今はまだうまく説明できないけど、私にはそれが自明の事実とも言えないの」
「そうか」と感心したようにあゆみは言った。「そのへんの事情というか、感じ方は私には今ひとつわからないけど、でもさ、今がいつであれ、ここがどこであれ、青豆さんには深く愛する人が一人いる。私から見ればそれはすごくうらやましいことだよ。私にはそんな相手もいない」
青豆はワイングラスをテーブルの上に置いた。ナプキンで軽く口元を拭った。そして言った。
「あなたの言うとおりかもしれない。今がいつであれ、ここがどこであれ、そんなこととは関係なく彼に会いたい。死ぬほど会いたい。それだけは確かなことみたいね。それだけは自信を持って言える」
「よかったら警察の資料をあたってみようか? 情報さえくれたら、その人がどこで何をしているか、わかるかもしれない」
青豆は首を振った。「探さないで。お願い。前にも言ったと思うけど、私はいつかどこかで彼に<���傍点>たまたま</傍点>巡り合うの。偶然にね。そのときをただじっと大事に待つ」
「大河恋愛ドラマだね」とあゆみは感心したように言った。「そういうのって私、好きだよ。びりびりきちゃうね」
「実際にやってる方はたいへんだけど」
「たいへんであることはわかる」とあゆみは言った。そして指先で軽くこめかみを押さえた。
「それでも、そこまで好きな相手がいても、知らない男とときどきセックスしたくなるんだね」
青豆は薄いワイングラスの縁を爪で軽くはじいた。「そうすることが必要なの。生身の人間としてバランスをとっておくために」
「でもそれによって、青豆さんの中にある愛が損われることはないんだ」
青豆は言った。「チベットにある煩悩の車輪と同じ。車輪が回転すると、外側にある価値や感情は上がったり下がったりする。輝いたり、暗闇に沈んだりする。でも本当の愛は車軸に取りつけられたまま動かない」
「素敵」とあゆみは言った。「チベットの煩悩の車輪か」
そしてグラスに残っていたワインを飲み干した。
二日後の夜の八時過ぎにタマルから電話がかかってきた。いつものように挨拶もなく、ビジネス上の率直なやりとりから話は開始された。
「明日の午後の予定は空いているかな?」
「午後の予定は何も入っていないから、そちらの都合の良い時間にうかがえます」
「四時半でどうだろう?」
それでかまわないと青豆は言った。
「けっこう」とタマルは言った。予定表にその時刻を記入するボールペンの音が聞こえた。筆圧が強い。
「ところで、つばさちゃんは元気にしているかしら?」と青豆は尋ねた。
「ああ、あの子は元気にしていると思う。マダムが毎日足を運んで面倒を見ている。子供もマダムにはなついているみたいだ」
「よかった」
「それはいいんだ。しかしその一方、あまり面白くないことが持ち上がった」
「面白くないこと?」と青豆は尋ねた。タマルが<���傍点>あまり</傍点>面白くないというとき、それが実際には<���傍点>ひどく</傍点>面白くないことであることを、青豆は知っていた。
「犬が死んだ」とタマルは言った。
「犬というと、ひょっとしてプンのこと?」
「そうだよ。ほうれん草を食べるのが好きだった、けったいなドイツ?シェパード。昨日の夜のうちに死んだ」
青豆はそれを聞いて驚いた。犬はまだ五歳か六歳だ。死ぬような年齢ではない。「この前見たときは元気そうだったけど」
「病気で死んだわけじゃない」とタマルは抑揚のない声で言った。「朝になったらばらばらになっていた」
「<���傍点>ばらばら</傍点>になっていた?」
「破裂でもしたように、内臓が派手に飛び散っていたんだ。勢いよく四方八方にね。ペーパータオルを使って、肉片をひとつひとつ集めてまわらなくちゃならなかった。死体はまるで内側からべろっとひっくり返されたような状態になっていた。誰かが犬の腹の中に強力な小型爆弾をしかけたみたいに」
「かわいそうに」
「犬のことはしかたない」とタマルは言った。「死んでしまったものは生き返らない。番犬の替わりを見つけることはできる。俺が気にしているのは、そこで<���傍点>何が起こったか</傍点>ってことだよ。こいつはそんじょそこらの人間にできることじゃないぜ。たとえば犬の腹に強力な爆弾をしかけるなんてさ。だいたいあの犬は知らない人間が近寄ってきたら、地獄の釜の蓋でも開けたみたいに吠えまくるんだ。そんなこと簡単にできるわけがない」
「たしかに」と青豆は乾いた声で言った。
「セーフハウスの女性たちもショックを受けて、怯えきっている。犬の食事の世話をする担当の女性が、朝になってその現場を目にした。思い切り吐いてから、電話で俺を呼んだ。俺は聞いてみた。夜のあいだ何か不審なことはなかったか? 何もない。爆発音を耳にしたものもいない。だいたいそんな派手な音がしたら、みんな間違いなく目を覚ます。ただでさえびくびくして暮らしている人たちだからな。つまりそれは無音の爆発だったんだ。犬の鳴き声を耳にしたものもいない。ことのほか静かな夜だった。しかし朝になったら犬はきれいに裏返しになっていた。新鮮な内臓があたりに吹き飛ばされ、近所のカラスは朝からずいぶん喜んでいた。でも俺にとってはもちろん気に入らないことだらけだ」
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