「マクルーハン?」
「私だって本くらい読むよ」とあゆみは不満そうな声で言った。「マクルーハンは時代を先取りしていた。一時期、流行りものになったせいでなんとなく軽く見られているけど、言ってることはおおむね正しい」
「つまりパッケージが内容そのものを含んでいる。そういうこと?」
「そういうこと。パッケージの特質によって内容が成立する。その逆ではなく」
青豆はそれについて考えてみた。そして言った。
「『さきがけ』の教団としての中身は不明だけど、そんなことには関係なく、人はそこに惹きつけられ、集まってくる。そういうこと?」
あゆみは肯いた。「驚くほどたくさん、とまでは言わないけど、決して少なくない数の人が寄ってくる。人が寄ってくると、それだけお金も集まる。当然のことだね。じゃあなんで、多くの人がこの教団に引き寄せられるかっていうと、私が思うに、まずだいいちに宗教っぼくないせいだね。とてもクリーンで知的で、システマチックに見える。早い話、貧乏くさくないわけよ。そういうところが、専門職や研究職に就いている若い世代の人たちを惹きつけるわけ。知的好奇心を刺激されるんだね。そこには現実の世界では得られない達成感がある。手にとって実感できる達成感がね。そしてそういうインテリの信者たちが、軍隊のエリート将校団みたいに、教団の中で強力なブレーンを形成している。
それから『リーダー』と呼ばれている指導者にはかなりのカリスマ性が具わっているらしい。人々はこの男に深く私淑している。言うなれば、この男の存在そのものが教義の核みたいなかたちで機能している。成り立ちとしては原始宗教に近いんだよ。キリスト教だって始まりは多かれ少なかれそんな感じだった。ところが<���傍点>こいつ</傍点>がまったく表に出てこない。顔かたちも知られていない。名前や年齢だってわからない。教団は合議制で運営されるという建前になっているし、その主宰者みたいなポジションには別の人間が就いて、公式な行事なんかにはそいつが教団の顔として出てくるんだけど、実体はただの据えものとしか思えない。システムの中心にいるのは、どうやらこの正体不明のリーダーらしいんだ」
「その男は、よほど自分の素性を隠しておきたいみたいね」
「何か隠しておきたい事情があるのか、それとも存在を明らかにしないで、ミステリアスな雰囲気を盛り上げようという意図なのか」
「それともよほど醜い顔をしているのか」
「それはあるかもね。この世のものではない異形{いぎょう}のもの」とあゆみは言って、怪物のように低くうなった。「まあそれはともかく、教祖に限らず、この教団には表に出てこないものが多すぎる。この前電話で話した、例の積極的な不動産取得活動もそのひとつね。表に出てくるのはただの<���傍点>見せかけ</傍点>だけ。きれいな施設、ハンサムな広報、インテリジェントな理論、エリートあがりの信者たち、ストイックな修行、ヨーガと心の平穏、物質主義の否定、有機農法による農業、おいしい空気と美しい菜食ダイエット……そういうのは計算されたイメージ写真みたいなものだよ。新聞の日曜版にはさまれてくる高級リゾート?マンションの広告と同じ。パッケージはとても美しい。しかしその裏では、胡散臭い企みが進行しているという雰囲気がある。おそらくは部分的に違法なことが。それが様々な資料をあたったあとで、私の得た率直な印象」
「しかし今のところ警察は動いていない」
「あるいは水面下で何かしらの動きがあるのかもしれないけど、そこまではちょっとわからない。でもね、山梨県警はこの教団の動向にある程度注目しているみたい。私が電話で話した担当者の口調にもなんとなくそういう雰囲気がうかがえた。『さきがけ』はなんといっても例の銃撃戦をやらかした『あけぼの』の出身母胎なわけだし、中国製カラシニコフの入手ルートも、たぶん北朝鮮だろうと推測されるだけで、まだすっかりは解明されていないからね。『さきがけ』もおそらくある程度はマークされている。しかし相手は宗教法人だし、うかつには手は出せない。既に立ち入り捜査もして、あの銃撃戦とは直接の関わりがないことがいちおう明らかになっているからね。ただ公安がどう動いているかまではこっちにもわからない。あの人たちは徹底して秘密主義だし、昔から一貫して警察と公安は仲良しの関係にはないから」
「小学校に来なくなった子供たちについては、この前以上のことはわかっていないの?」
「それもわからない。子供たちはいったん学校に行かなくなると、もう二度と塀の外には出てこないみたいだ。そういう子供たちについては、こっちとしても調べようがないのよ。児童虐待の具体的な事実でもでてくれば話は違ってくるけど、今のところそんなものもないし」
「『さきがけ』から抜けた人たちは、そういうことについて何か情報を与えてくれないのかな?教団に失望して、あるいは厳しい修行にめげて、脱退していく人も少しはいるんでしょう?」
「もちろん教団に出入りはある。入信する人もいれば、失望して出ていく人たちもいる。教団を抜けるのは基本的に自由なの。入会するときに『施設永代使用料』として寄進した多額のお金は、そのときに交わされた契約書に従って一銭も戻ってこないけど、それさえ納得すれば、身ひとつで出て行ける。脱会した人たちでつくっている会もあって、この人たちは『さきがけ』は反社会的な危険なカルトであり、詐欺行為を働いていると主張している。訴えも起こしているし、小さな会誌みたいなものも出している。しかしその声はとても小さいし、世間的にはほとんど影響力はない。教団は優秀な弁護士を揃えて、法律面では水も漏らさぬ防御システムをこしらえているし、訴訟を起こされてもぴくりとも揺らがない」
「脱会者たちはリーダーについて、あるいは中にいる信者の子供たちについて、何か発言はしていないの?」
「私もその会誌の実物を読んだわけじゃないからね、よくは知らないんだ」とあゆみは言った。
「でもざっとチェックしたところでは、そういう脱会不満分子はみんな、おおむね下っ端なわけ。小物なんだ。『さきがけ』という教団は、現世的な価値を否定するって偉そうにうたっているわりには、ある部分、現世以上にあからさまな階級社会なんだよ。幹部と下っ端にはっきりとわかれている。高い学歴とか専門的な職能を持っていないと、まず幹部にはなれない。リーダーに会ってその指導を仰いだり、教団システムの中枢に関われるのは、幹部のエリート信者に限られている。あとのその他大勢のみなさんは、しかるべきお金を寄進し、きれいな空気の中でこつこつと修行をしたり、農作業に励んだり、メディテーション?ルームで瞑想に耽ったり、そういう殺菌された日々を送っているだけ。羊の群れと変わりがない。羊飼いと犬に管理され、朝には放牧場に連れて行かれ、夕方には宿舎に戻されて、という平和な毎日を送っているの。彼らは教団内でのポジションを向上させて、偉大なるビッグ?ブラザーに対面できる日を待ち望んでいるけど、そういう日はまず巡ってこない。だから一般の信者は教団システムの内情についてはほとんど何も知らないし、たとえ『さきがけ』を脱会しても、世間に提供できる大事な情報を持ち合わせてはいない。リーダーの顔を見たことすらない」
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