「何か奇妙なことが起こっている」
「間違いなく」とタマルは言った。「何か奇妙なことが起こっている。そして俺の感覚が正しければ、これは何かの始まりに過ぎない」
「警察には連絡した?」
「まさか」、タマルは嘲るような微妙な音を鼻から出した。「警察なんて何の役にも立たない。見当違いなところで見当違いなことをやって、話がますます面倒になるだけだ」
「マダムはそれについて、なんて言っているの?」
「あの人は何も言わない。俺の報告を聞いてただ肯くだけだ」とタマルは言った。「セキュリティーに関することは、俺がすべて責任を持って処理する。最初から最後まで。なんといってもそれが俺の仕事だからね」
しばらく沈黙があった。責任に付随する重い沈黙だった。
「明日の四時半に」と青豆は言った。
「明日の四時半に」とタマルは反復した。そして静かに電話を切った。
第24章 天吾
ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう
木曜日は朝から雨が降っていた。それほど激しい降りではないが、おそろしく執拗な性質を持った雨だった。前日の昼過ぎに降り始めてから一度も降り止んでいない。そろそろ降り止みそうかなと思ったところで、また思い出したように雨脚が強くなる。すでに七月も半ば過ぎだというのに、梅雨が終わる気配はまるで見えなかった。空は蓋をかぶせられたように暗く、世界中が重い湿り気を帯びていた。
昼前、レインコートを着て帽子をかぶり、近所に買い物に行こうとして、郵便受けにパッド入りの分厚い茶色の封筒が入っているのを目にした。封筒には消印はなく、切手も貼られていない。住所も書かれていない。差出人の名前もない。表の中央にはボールペンの小さな堅い字で「天吾」と書いてあった。乾いた粘土の上を釘でひっかいたような書体だ。いかにもふかえりの書きそうな字だった。封を切ると、中にはきわめて事務的な見かけのTDKの六十分テープが一本入っていた。手紙もメモも何も添えられていない。ケースもなく、テープにラベルも貼られていない。
天吾は少し迷ったが、買い物に出るのはやめて、部屋に戻ってそのテープを聴いてみることにした。カセットテープを宙にかざし、それから何度か振ってみた。いくぶん謎めいた趣はあるにせよ、どう見てもあたりまえの大量生産品だ。再生してみたらカセットテープが爆発した、というようなこともなさそうだ。
彼はレインコートを脱ぎ、台所のテーブルの上にラジオカセットを置いた。封筒からカセットテープを取り出し、そこにセットした。記録を必要とするときのために、メモ用紙とボールペンを用意した。あたりを見まわして誰もいないことを確認してから再生ボタンを押した。
始めのうち何の音も聞こえなかった。無音の部分がひとしきり続いた。ただのブランク?テープじゃないのかと思い始めたときに、急にごとごとという背景音が聞こえた。椅子を引く音のようだ。軽い咳払い(らしきもの)も聞こえた。それから唐突にふかえりが話し始めた。
「テンゴさん」とふかえりが発声のテストをするみたいに言った。ふかえりが天吾の名前をまともに呼んだのは、天吾の記憶によれば、おそらくそれが初めてだ。
彼女はもう一度咳払いをした。少し緊張しているようだ。
てがみをかけるといいんだけどにがてなのでテープにふきこむ。でんわをするよりこっちのほうがラクにはなせる。でんわはたちぎきしているかわからない。ちょっとまってみずをのむ。
ふかえりがグラスを手に取り、一口飲み、それを(たぶん)テーブルの上に戻す音が聞こえた。アクセントや疑問符や読点を欠いた、彼女の独特のしゃべり方は、テープに吹き込まれると、会話をしているとき以上に普通ではない印象を聞くものに与えた。非現実的と言ってもいいくらいだ。しかしとにかくテープでは会話のときとは違って、彼女は複数のセンテンスを積み重ねて話していた。
わたしのゆくえがわからなくなっていることをミミにした。しんぱいしているかもしれない。でもだいじょうぶわたしはいまのところきけんのないところ。そのことをしらせたかった。ほんとうはいけないのだけれどしらせたほうがいいとおもった。
(十秒の沈黙)
だれにもおしえないようにいわれている。わたしがここにいると。センセイはわたしのソウサクねがいをケイサツにだした。しかしケイサツはうごきださない。こどもがイエデをするのはめずらしいことではないし。だからわたしはしばらくここでじつとしている。
(十五秒の沈黙)
ここはとおくのバショでそとをあるきまわったりしないかぎりだれにもみつからない。とてもとおく。アザミがこのテープをとどける。ユウビンでおくるのはよくない。チュウイふかくならなくてはならない。ちょっとまって。ロクオンされているかみてみる。
(かたんという音。少し間が空く。また音がする)
だいじょうぶロクオンされている。
遠くの方で子供たちが叫んでいる声が聞こえる。微かに音楽も聞こえる。たぶん開いた窓の外から入ってくる音だろう。近くに幼稚園があるのかもしれない。
このあいだへやにとめてくれてありがとう。そうするヒツヨウがあった。あなたのことをしるヒツヨウもあった。ホンをよんでくれてありがとう。ギリヤークじんにはこころをひかれる。ギリヤークじんはなぜひろいドウロをあるかないでもりのぬかるみをあるくのか。
(天吾はそのあとにそっと疑問符を添えた)
ドウロがべんりでもギリヤークじんたちはドウロからはなれてもりをあるいたほうがラクだ。ドウロをあるくにはあるくことをはじめからつくりなおさなくてはならない。あるくことをつくりなおすとほかのこともつくりなおさなくてはならない。わたしはギリヤークじんのようにはくらせない。おとこたちにしょっちゅうぶたれるのもいやだ。うじのたくさんいるフケツなくらしもいやだ。でもわたしもひろいドウロをあるくことはあまりすきではない。またみずをのむ。
ふかえりはまた水を飲んだ。しばし沈黙の時間があり、グラスがことんという音を立ててテーブルの上に戻された。それから指先で唇を拭う間があった。この少女はテープレコーダーに録音一時停止ボタンがついていることを知らないのだろうか?
わたしがいなくなってこまるかもしれない。でもわたしはショウセツカになるつもりはないしこれいじょうなにかをかくつもりもない。ギリヤークじんについてアザミにしらべてもらった。アザミはとしょかんにいってしらべた。ギリヤークじんはサハリンにすんでいてアイヌやアメリカ?インディアンとおなじでジをもたない。キロクものこさない。わたしもおなじ。いったんジになるとそれはわたしのはなしではなくなる。あなたはうまくそれをジにかえたしだれもあなたのようにはうまくできなかったとおもう。でもそれはもうわたしのはなしではない。でもしんぱいない。あなたのせいではない。ひろいドウロからはなれてあるいているだけだから。
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