天吾は黙っていた。小松は続けた。
「いささか面倒なことになってきた。戎野先生の出したふかえりの捜索願を受けて、警察が捜索を公式に開始したんだ。まあ警察だって本腰を入れて捜査するところまではいかないだろう。身代金の請求が来ているわけでもないしな。ただうっちゃっておいて、何かがあると具合が悪いからとりあえず動いているというところを見せておくだけだろう。ただしマスコミはそんなに簡単に放っておいちゃくれない。俺のところにもいくつか新聞から問い合わせが来た。俺はもちろん『なんにも知らない』という姿勢を貫いたよ。だって今のところ話すことなんて何もないからな。連中は今頃はもうふかえりと戎野先生の関係、そして革命家としての両親の経歴みたいなものを洗い出しているはずだ。そういう事実もおいおい表に出てくるだろう。問題は週刊誌だ。フリーのライターだかジャーナリストだかが、血の臭いを嗅ぎつけた鮫みたいにうようよ集まってくる。あいつらはみんな腕がいいし、食いついたら放さない。なにしろ生活がかかっているからな。プライバシーとか節度とか、そんなものにはかまっちゃいられない。同じ物書きでも、天吾くんみたいなおっとりした文学青年とはわけが違うからね」
「だから僕も気をつけた方がいいということですか」
「そのとおり。覚悟して身辺を固めておいた方がいい。どこから何を嗅ぎつけるか知れたものじゃないからな」
小さなボートが鮫の群れに取り囲まれている情景を、天吾は頭の中で想像した。しかしそれはうまい落ちがついていない一コマ漫画にしか見えなかった。「リトル?ピープルのもたないものをみつけなくてはならない」とふかえりは言った。それはいったいどんなものなのだろう?
「しかし小松さん、こういう風になるというのが、戎野先生がそもそも目論んでいたことじゃなかったんですか」
「ああ、そうかもな」と小松は言った。「俺たちは体{てい}よく利用されたということになるのかもしれない。しかし先方の考えは最初からある程度わかってはいたんだ。先生は決して自分の目論見を隠していたわけではなかったからね。そういう意味ではまあ、フェアな取り引きではあった。その時点でこっちも『先生、そいつはやばいですよ。ちょっと乗れませんね』と断ることもできた。まともな編集者なら間違いなくそうしていたはずだ。ところが俺は天吾くんも知ってのとおり、まともな編集者とは言えない。そのとき事態は既に前に進み出していたし、こっちにも欲があった。それでいささか脇が甘くなったかもしれない」
電話口で沈黙があった。短いが緊密な沈黙だった。
天吾が口を開いた。「つまり小松さんの立てた計画は途中から戎野先生に乗っ取られたような格好になったわけだ」
「そういう言い方もできるだろう。つまりあっちの思惑の方がより強く前に出てきたということになる」
天吾は言った。「戎野先生はこの騒ぎをうまく着地させられると思いますか?」
「戎野先生はもちろんできると考えている。読みの深い人だし、自信家だからな。あるいはそのとおりうまくいくかもしれない。しかしもし今回の騒ぎが、戎野先生の思惑さえ超えたものになってしまったら、あるいは収拾がつかなくなるかもしれない。どんなに優れた人間であれ、一人の人間の能力には限界というものがある。だからシートベルトだけはしっかり締めておいた方がいい」
「小松さん、墜落する飛行機に乗り合わせたら、シートベルトをいくらしっかり締めていたところで、役には立ちませんよ」
「しかし気休めにはなる」
天吾は思わず微笑んでしまった。力のない微笑みではあったけれど。「それがこの話の骨子ですか? 決して愉快ではないけれど、逆説的なおかしみならいくらかあるかもしれない話の?」
「君をこんなことに巻き込んで悪かったとは思っているんだ。正直なところ」と小松は表情を欠いた声で言った。
「僕のことはかまいません。とくに失って困るようなものはありません。家族もいないし、社会的地位もないし、たいした将来があるわけでもない。それより心配なのはふかえりのことです。まだ十七歳の女の子ですよ」
「俺にももちろんそれは気になる。気にならないわけがないさ。しかしそれは、今ここで俺たちがあれこれ考えたところで、どうにもならんことだよ、天吾くん。とりあえずは、俺たちが強風をくらってどっかに飛ばされないように、身体をしっかりしたところに縛りつけておくことを考えよう。当分新聞はこまめに読んでおいた方がいいぜ」
「ここのところ、新聞は毎日読むように心がけています」
「それがいい」と小松は言った。「ところでふかえりの行方について、何か思い当たる節はないか? どんなことでもいいんだけど」
「何もありません」と天吾は言った。彼は嘘をつくのが得意ではない。そして小松には妙に勘の良いところがある。しかし小松は、天吾の声の微妙な震えには気がつかないようだった。自分のことで頭がいっぱいなのだろう。
「何かあったらまた連絡をする」、小松はそう言って電話を切った。
受話器を置いたあと天吾がまずやったのは、グラスを出し、バーボン?ウィスキーを二センチばかり注ぐことだった。小松の言ったとおり、電話のあとには酒が必要だった。
金曜日にガールフレンドがいつもどおり彼の部屋にやってきた。雨は降り止んでいたが、空はまだ灰色の雲に隙間なく覆われていた。二人は軽く食事をし、ベッドに入った。天吾はセックスのあいだもいろんなことを切れ切れに考え続けていたが、それが性行為のもたらす肉体的な喜びを損なうことはなかった。彼女は天吾の中にある一週間ぶんの性欲を、いつもどおり手際よく引き出し、てきぱきと処理していった。そして彼女自身もそこから十分な満足を味わった。帳簿の数字の複雑な操作に深い喜びを見いだす有能な税理士のように。それでもやはり、天吾がほかの何かに気をとられていることを、彼女は見抜いたようだった。
「ここのところ、ウィスキーがかなり減っているみたいだけど」と彼女は言った。その手はセックスの余韻を味わうように、天吾の厚い胸に載せられていた。薬指には小振りな、しかしよく輝くダイヤモンドの結婚指輪がはまっている。ずいぶん以前から棚に置きっぱなしになっているワイルド?ターキーの瓶のことを、彼女は言っているのだ。年下の男と性的な関係を持っている中年の女性の多くがそうであるように、彼女はいろんな風景の細かい変化に目をとめた。
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