「意味はないよ。ただふと思いついたんだ」、天吾はなんとか声を絞り出した。
彼女は睾丸を握った手をゆるめ、ため息をついた。そして言った。「今度は何かあなたの夢の話をして。天吾くんの見る夢の話」
天吾はようやく呼吸を整えて言った。「さっきも言ったように僕はほとんど夢を見ないんだ。とくにここ最近は」
「少しくらいは見るでしょう。まったく夢を見ない人なんて世界のどこにもいないんだから。そんなことを言ったら、フロイト博士が気を悪くするわよ」
「見てるのかもしれないけど、目が覚めたら夢のことはろくに覚えてないんだ。何か夢を見たらしいという感触が残っていても、内容はまるで思い出せない」
彼女は柔らかくなったままの天吾のペニスを手のひらに載せ、その重さを慎重にはかった。まるでその重みが何か重要な事実を物語っているみたいに。「じゃあ、夢の話はいい。そのかわり今書いている小説の話をして」
「今書いている小説の話は、できればしたくないんだ」
「あのね、筋書きを頭から全部そっくり話せっていってるわけじゃないのよ。私だってそこまでは要求しない。天吾くんが体格のわりにセンシティブな青年であることはよくわかっているから。ただ、道具立ての一部でもいい、ちょっとした脇道のエピソードでもいい、何か少しでも話してくれればいい。世の中の他の誰もがまだ知らないことを、私にだけ打ち明けてほしいの。あなたが私にひどいことを言ったから、その埋め合わせをしてもらいたいわけ。私の言っている意味はわかる?」
「たぶんわかると思うけど」と天吾は自信のない声で言った。
「じゃあ、話して」
ペニスを彼女の手のひらに載せたまま、天吾は話した。「それは僕自身についての話なんだ。あるいは僕自身をモデルにした誰かについての話なんだ」
「たぶんそうなのでしょうね」とガールフレンドは言った。「それで、私はその話の中に出てくるのかしら?」
「出てこない。僕がいるのはここではない世界だから」
「ここではない世界には私はいない」
「君だけじゃない。ここの世界にいる人は、ここではない世界にはいない」
「ここではない世界は、ここの世界とどう違うのかしら。今自分がどちらの世界にいるか、見分けはつくのかな?」
「見分けはつくよ。僕が書いているんだから」
「私が言っているのは、<���傍点>あなた以外のほかの人々にとって</傍点>ということ。たとえば何かの加減で、私がふとそこの世界に紛れ込んでしまったとしたら」
「たぶん見分けはつくと思う」と天吾は言った。「たとえば、ここではない世界には月が二個あるんだ。だから違いがわかる」
月が空に二個浮かんでいる世界という設定は『空気さなぎ』から運び入れたものだ。天吾はその世界についてもっと長い複雑な物語を——そして彼自身の物語を——書こうとしていた。設定が同じであることは、後日あるいは問題になるかもしれない。しかし天吾は今、月が二個ある世界の物語をどうしても書いてみたかった。あとのことはあとで考えればいい。
彼女は言った。「つまり夜になって空を見上げて、そこに月が二個浮かんでいたら、『ああ、ここはここではない世界だな』ってわかるわけね?」
「それがしるしだから」
「その二つの月は重なり合ったりはしない」と彼女は尋ねた。
天吾は首を振った。「何故かはわからないけれど、二つの月のあいだの距離はいつも一定に保たれている」
ガールフレンドはその世界についてしばらくのあいだ一人で考えていた。彼女の指が天吾の裸の胸の上で何かの図形を描いていた。
「ねえ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知っている?」と彼女が尋ねた。
「どちらも精神に異常をきたしているという形容詞だ。細かい違いまではわからない」
「insaneはたぶんうまれつき頭に問題のあること。専門的な治療を受けるのが望ましいと考えられる。それに対してlunaticというのは月によって、つまりlunaによって一時的に正気を奪われること。十九世紀のイギリスでは、lunaticであると認められた人は何か犯罪を犯しても、その罪は一等減じられたの。その人自身の責任というよりは、月の光に惑わされたためだという理由で。信じられないことだけど、そういう法律が現実に存在したのよ。つまり月が人の精神を狂わせることは、法律の上からも認められていたわけ」
「どうしてそんなことを知っているの?」と天吾は驚いて尋ねた。
「そんなにびっくりすることはないでしょう。私はあなたより十年ばかり長く生きてるのよ。だったら、あなたより多くのことを知っていてもおかしくない」
確かにそのとおりだと天吾は認めた。
「正確に言えば、日本女子大学の英文学の講義で教わったの。デイッケンズの講読。変わった先生で、小説の筋とは関係のない余談ばかりしていた。それで私が言いたかったのはね、今ある月ひとつだけでもじゅうぶん人を狂わせるんだから、月がふたつも空に浮かんでいれば、人の頭はますますおかしくなるんじゃないかってこと。潮の満ち干だって変わるし、女の人の生理不順も増えるはずよ。まともじゃないことが次々に出てくると思う」
天吾はそれについて考えてみた。「たしかにそうかもしれない」
「その世界では人はしょっちゅう頭がおかしくなるの?」
「いや、そうでもない。とくに頭がおかしくなるわけじゃない。というか、ここにいる我々とだいたい同じようなことをしている」
彼女は天吾のペニスを柔らかく握った。「ここではない世界で、人々はここにいる私たちとだいたい同じようなことをしている。だとしたら、ここではない世界であることの意味はいったいどこにあるのかしら?」
「ここではない世界であることの意味は、ここにある世界の過去を書き換えられることなんだ」と天吾は言った。
「好きなだけ、好きなように過去を書き換えることができる?」
「そう」
「あなたは過去を書き換えたいの?」
「君は過去を書き換えたくないの?」
彼女は首を振った。「私は過去だとか歴史だとか、そんなものを書き換えたいとはちっとも思わない。私が書き換えたいのはね、今ここにある現在よ」
「でも過去を書き換えれば、当然ながら現在だって変わる。現在というのは過去の集積によって形作られているわけだから」
彼女はまた深いため息をついた。そして天吾のペニスを載せた手のひらを何度か上下させた。エレベーターの試験運転でもしているみたいに。「ひとつだけ言えることがある。あなたはかつての数学の神童で、柔道の有段者で、長い小説だって書いている。それにもかかわらず、あなたにはこの世界のことが<���傍点>なんにもわかっていない</傍点>。何ひとつ」
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