天吾は低くうなった。「まずいこと」
「先生も娘もとても心配している」と小松は言った。
「いずれにせよ、彼女の行方がこのままわからなくなったら、小松さんはきっと困った立場に置かれるんでしょうね」
「ああ、もし警察沙汰になったら、それはずいぶんややこしいことになるだろうな。なにしろベストセラー街道を突っ走る本を書いた美少女作家が失踪したんだ。マスコミが色めき立つことは目に見えている。そうなったら担当編集者としてこの俺があちこちに引っ張り出されて、コメントを求められたりするだろう。そいつはどうにも面白くない。俺はあくまで陰の人間だからね、日の光には馴染まない。それにそんなことをしているうちに、どこでどんな風に内幕が暴き出されるか、わかったものじゃない」
「戎野先生はどう言っているんですか?」
「明日にも警察に捜索願を出すと言っている」と小松は言った。「なんとか頼み込んでそいつは数日遅らせてもらった。しかしそう長くは引っ張れそうにない」
「捜索願が出されたことがわかると、マスコミが出てくるんでしょうね」
「警察がどう対応するかはわからないが、ふかえりは時の人だ。ただのティーンエージャーの家出とはわけが違う。世間に隠しきることはむずかしかろうな」
あるいはそれこそが、戎野先生が望んでいたことなのかもしれない、と天吾は思った。ふかえりを餌にして世間に騒ぎを起こし、それを挺子に「さきがけ」と彼女の両親との関係を明らかにし、彼らの居場所を探り当てること。もしそうだとしたら、先生の計画は今のところ予想通りの展開を見せていることになる。しかしそこにどれほどの危険性が含まれているのか、先生には把握できているだろうか? たぶんそれくらいはわかっているはずだ。戎野先生は無考えな人間ではない。そもそも深く考えることが彼の仕事なのだ。そしてふかえりを巡る状況には、天吾が知らされていない重要な事実がまだいくつもありそうだった。天吾は言うなれば、揃っていないピースを渡されて、ジグソー?パズルを組み立てているようなものだ。知恵のある人間は最初からそんな面倒には関わり合いにならない。
「彼女の行き先について、天吾くんに何か心当たりはないか?」
「今のところはありません」
「そうか」と小松は言った。その声には疲労の気配がうかがえた。小松が弱みを表に出すのはあまりないことだった。「夜中に起こして悪かったね」
小松が謝罪の言葉を口にするのもかなり珍しいことだ。
「いいですよ、事情が事情だから」と天吾は言った。
「俺としちゃ、できればこういう現実的なごたごたには天吾くんを巻き込みたくなかった。君の役目はあくまで文章を書くことであって、その勤めはしっかり果たしてくれたわけだからな。しかし世の習いとして、ものごとはなかなかすんなりとは収まらない。そしていつかも言ったように、俺たちはひとつのボートに乗って急流を流されている」
「一蓮托生」と天吾は機械的に言葉を添えた。
「そのとおり」
「しかし小松さん、ふかえりの失踪がニュースになれば、『空気さなぎ』が更に売れるんじゃないんですか?」
「もうじゅうぶん売れてるよ」と小松はあきらめたように言った。「これ以上の宣伝はいらない。派手なスキャンダルは面倒のタネでしかない。我々としてはむしろ平穏な着地先について考えなくちゃならないところだ」
「着地先」と天吾は言った。
架空の何かを喉に飲み込むような音を、小松は電話口で立てた。それから一度小さく咳払いをした。「そのへんのことについては、またいつか飯でも食ってゆっくり話をしよう。今回のごたごたが片づいてからな。お休み、天吾くん。ぐっすり眠るといい」
小松はそう言って電話を切ったが、まるで呪いでもかけられたみたいに、天吾はそのあと眠れなくなった。眠いのだが、眠ることができない。
何が「ぐっすり眠るといい」だ、と天吾は思った。台所のテーブルに座って仕事をしようと思った。しかし何も手につかなかった。戸棚からウィスキーの瓶を出し、グラスに注いでストレートで小さく一口ずつ飲んだ。
ふかえりは設定どおり生き餌としての役割を果たし、教団「さきがけ」が彼女を誘拐したのかもしれない。その可能性は小さくないように天吾には思えた。彼らは信濃町のマンションを見張っていて、ふかえりが姿を見せたところを数人で力ずくで車に押し込み、連れ去った。素速くやれば、そして状況さえうまく選べば、決して不可能なことではない。ふかえりが「信濃町のマンションには帰らない方がいい」と言ったとき、彼女はそのような気配を感じとっていたのかもしれない。
リトル?ピープルも空気さなぎも実在する、とふかえりは天吾に言った。彼女は「さきがけ」というコミューンの中で盲目の山羊を誤って死なせ、その懲罰を受けているときに、リトル?ピープルと知り合った。彼らと共に夜ごと空気さなぎをつくった。そしてその結果彼女の身に何か大きな意味を持つことが起こった。彼女はその出来事を物語のかたちにした。天吾がその物語を小説のかたちに整えた。言い換えれば<���傍点>商品のかたち</傍点>に変えたわけだ。そしてその商品は(小松の表現を借りるなら)ホットケーキのように作るそばから売れている。「さきがけ」にとって、それは都合の悪いことであったのかもしれない。リトル?ピープルと空気さなぎの物語は、外部に明かしてはならない重大な秘密であったのかもしれない。だから彼らは秘密のこれ以上の漏洩を阻止するためにふかえりを誘拐し、その口を塞がなくてはならなかった。もし彼女の失踪が世間の疑惑を呼ぶことになったとしても、それだけのリスクを冒しても、実力行使に及ばないわけにはいかなかったのだ。
しかしそれももちろん、天吾の立てた仮説に過ぎない。差し出せるような根拠はないし、証明することも不可能だ。声を大にして「リトル?ピープルと空気さなぎは実在します」なんて人々に告げたところで、どこの誰がそんな話に取り合ってくれるだろう? だいいちそれらが「実在する」というのが具体的にどんなことを意味しているのか、天吾自身にだってよくわからないのだ。
それともふかえりは、ただ『空気さなぎ』のベストセラー騒ぎにうんざりして、どこかに一人で雲隠れしたのだろうか。もちろんそういう可能性は考えられる。彼女の行動を予測するのはほとんど不可能に近い。しかしもしそうだったとしても、彼女は戎野先生やその娘のアザミに心配をかけないように、何かしらのメッセージは残していくはずだ。そうしてはならない理由は何ひとつないのだから。
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