しかしその記憶には、生々しい現実感が伴っていた。たしかな感触があり、重みがあり、匂いがあり、奥行きがあった。それは廃船についた牡蠣のように、彼の意識の壁にとんでもなく強固にへばりついていた。どれだけ振り落とそうとしても、洗い流そうとしても、はがすことはできなかった。そんな記憶が自分の意識が必要に応じて作り上げた、ただのまがいものであるとは、天吾にはどうしても考えられなかった。架空のものにしてはあまりにもリアルすぎるし、強固過ぎる。
それが本物の、実際の記憶であると考えてみよう。
赤ん坊である天吾はその情景を目にして、きっと怯えたに違いない。自分に与えられるべき乳房を、誰か別の人間が吸っている。自分よりも大きく強そうな誰かが。そして母親の脳裏からは自分の存在が、たとえ一時的にせよ消えてしまっているように見える。それはひ弱な彼の生存を根本から脅かす状況である。そのときの根元的な恐怖が、意識の印画紙に激しく焼きつけられてしまったのかもしれない。
そしてその恐怖の記憶は、予想もしないときに唐突によみがえり、鉄砲水となって彼を襲った。パニックにも似た状態を天吾にもたらした。それは彼に語りかけ、思い出させた。お前はどこに行こうと、何をしていようと、この水圧から逃げ切ることはできないのだ。この記憶はお前という人間を規定し、人生をかたちづくり、お前を<���傍点>ある決められた場所</傍点>に送り込もうとしている。どのようにあがこうと、お前がこの力から逃れることはできないのだ、と。
それから天吾はふと思った。ふかえりの着ていたパジャマを洗濯機の中から取り上げ、鼻にあてて匂いを嗅いでしまうとき、おれはあるいはそこに母親の匂いを求めていたのかもしれない。そんな気がした。しかしどうしてよりによって、十七歳の少女の身体の匂いに、去っていった母親のイメージを求めなくてはならないのか? もっとほかに求めるべき場所はあるはずだ。たとえば年上のガールフレンドの身体に。
天吾のガールフレンドは彼より十歳年上だったし、彼の記憶している母親の乳房に近い、かたちの良い大きな乳房を持っていた。白いスリップも似合った。しかし天吾はなぜか彼女に母親のイメージを求めることはない。その身体の匂いに興味を持つこともない。彼女はとても効果的に、天吾の中から一週間分の性欲を搾り取っていった。天吾も彼女に(ほとんどの場合)性的な満足を与えることができた。それはもちろん大事な達成だった。しかし二人の関係には、それ以上の深い意味は含まれていなかった。
彼女が性行為の大半の部分をリードした。天吾はほとんど何も考えず、彼女に指示されるままに行動した。何を選択する必要もなく、判断する必要もなかった。彼に要求されているのはふたつだけだった。ペニスを硬くしておくことと、射精のタイミングを間違えないことだ。「まだだめよ。もう少し我慢して」と言われれば、全力を尽くして我慢した。「さあ今よ。ほら、早く来て」と耳元で囁かれると、その地点で的確に、できるだけ激しく射精した。そうすれば彼女は天吾をほめてくれた。頬を優しく撫でながら、天吾くん、あなたって素晴らしいわよ、と言ってくれた。そして的確さの追求は、天吾が生来得意とする分野のひとつだった。正しい句読点を打ったり、最短距離の数式を見つけ出すこともそこに含まれる。
自分より年下の女性とセックスをするときには、そうはいかない。始めから終わりまで彼がいろんなことを考え、様々な選択をおこない、判断を下さなくてはならない。それは天吾を居心地悪くさせた。様々な責任が彼の双肩にのしかかってきた。荒海に乗り出した小さな船の船長になった気分だった。舵を取ったり、帆の具合を点検したり、気圧や風向きを頭に入れておかなくてはならない。自分を律し、船員たちの信頼を高めなくてはならない。細かいミスやちょっとした手違いが惨事へと結びつきかねない。それはセックスというよりはむしろ、任務の遂行に近いものになった。その結果、彼は緊張して射精のタイミングを間違えたり、あるいは必要なときにうまく硬くならなかったりした。そして自分に対してますます懐疑を抱くことになった。
しかし年上のガールフレンドとのあいだでは、そのような手違いはまず起こらなかった。彼女は天吾の性的な能力を高く評価してくれた。常に彼を褒め、励ましてくれた。天吾が一度だけ早すぎる射精をしてからは、注意深く白いスリップを身につけることを避けた。スリップだけではなく、白い下着をつけることだってやめてしまった。
その日も彼女は黒い下着の上下を身につけていた。そして彼に入念なフェラチオをした。そして彼のペニスの硬さと、睾丸のやわらかさを心ゆくまで愉しんでいた。黒いレースのブラジャーに包まれた彼女の乳房が、口の動きにあわせて上下するのを、天吾は目にすることができた。彼は早すぎる射精を避けるために、目を閉じてギリヤーク人のことを考えた。
彼らのところには法廷などなく、裁判が何を意味するかも知らないでいる、彼らが今にいたるもなお、道路の使命を全く理解していないという一事からしても、彼らがわたしたちを理解するのがいかに困難か、わかるだろう。道路がすでに敷かれているところですら、あいかわらず密林を旅しているのだ。彼らが家族も犬も列を作って、道路のすぐそばのぬかるみを、やっとのことで通っていくのをよく見かける。
粗末な衣服に身を包んだギリヤーク人たちが隊列を作り、犬や女たちとともに、道路に沿った密林の中を口数少なく歩んでいく光景を想像した。彼らの時間と空間と可能性の観念の中には、道路というものは存在しなかった。道路を歩いているよりは、密林の中をひそやかに歩いている方が、たとえ不便はあっても、彼らは自分たちの存在意義をより明確に捉えることができたのだろう。
きのどくなギリヤークじん、とふかえりは言った。
天吾はふかえりの寝顔を思い浮かべた。ふかえりは大きすぎる天吾のパジャマを着て眠っていた。長すぎる袖と足元は折り返されている。彼はそれを洗濯機の中から取り上げ、鼻にあてて匂いを嗅ぐ。
そんなことを考えちゃいけないんだ、と天吾ははっと我に返って思う。しかしそのときはもう遅すぎる。
天吾はガールフレンドの口の中に激しく何度も射精した。彼女はそれを最後まで口の中に受け、それからベッドを出て洗面所に行った。彼女が蛇口をひねって水を出し、口をゆすぐ音が聞こえた。それからなにごともなかったようにベッドに戻ってきた。
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