「そうか」と青豆は言った。そしてため息をついた。「じゃあアウトね」
「でもどうしてそんなことを知りたいの? 知り合いが何か『さきがけ』がらみの事件に巻き込まれているとか?」
青豆はどうしようかと迷ったが、正直に話すことにした。「それに近いこと。レイプが関連している。今の段階では詳しいことはまだ言えないんだけど、少女のレイプ。宗教を隠れ蓑にして、そういうのが組織的に内部で行われているという情報があるの」
あゆみが軽く眉をしかめる様子が電話口でわかった。「ふうん、少女レイプか。そいつはちょっと許せないな」
「もちろん許せない」と青豆は言った。
「少女って、いくつくらい?」
「十歳か、それ以下。少なくとも初潮を迎えていない女の子たち」
あゆみは電話口でしばらく黙り込んでいた。それから平板な声で言った。「わかったよ。そういうことなら、何か手を考えてみる。二三日時間をくれる?」
「いいよ。そちらから連絡をちょうだい」
そのあとしばらく他愛のないおしゃべりをしてから、「さあ、またお仕事に行かなくっちゃ」とあゆみが言った。
電話を切ったあと、青豆は窓際の読書用の椅子に座ってしばらく自分の右手を眺めた。ほっそりとした長い指と、短く切られた爪。爪はよく手入れされているが、マニキュアは塗られていない。爪を見ていると、自分という存在がほんの束の間の、危ういものでしかないという思いが強くなった。爪のかたちひとつとっても、自分で決めたものではない。誰かが勝手に決めて、私はそれを黙って受領したに過ぎない。好むと好まざるとにかかわらず。いったい誰が私の爪のかたちをこんな風にしようと決めたのだろう。
老婦人はこのあいだ青豆に「あなたのご両親は熱心な『証人会』の信者だったし、今でもそうです」と言った。とすれば、あの人たちは今でも同じように布教活動に励んでいるのだろう。青豆には四歳年上の兄がいた。おとなしい兄だった。彼女が決意して家を出たとき、彼は両親の言いつけに従い、信仰をまもって生活していた。今どうしているのだろう? しかし青豆は家族の消息をとくに知りたいとも思わなかった。彼らは青豆にとって、もう終わってしまった人生の部分だった。絆は断ち切られてしまったのだ。
十歳より前に起こったことを残らず忘れてしまおうと、彼女は長いあいだ努力を続けてきた。私の人生は実際には十歳から開始したのだ。それより前のことはすべて惨めな夢のようなものに過ぎない。そんな記憶はどこかに捨て去ってしまおう。しかしどれだけ努力しても、ことあるごとに彼女の心はその惨めな夢の世界に引き戻された。自分が手にしているもののほとんどは、その暗い土壌に根を下ろし、そこから養分を得ているみたいに思えた。どれほど遠いところに行こうと試みても、結局はここに戻ってこなくてはならないのだ、と青豆は思った。
私はその「リーダー」をあちらの世界に移さなくてはならない、と青豆は心を決めた。私自身のためにも。
三日後の夜にあゆみから電話がかかってきた。
「いくつかの事実がわかった」と彼女は言った。
「『さきがけ』のことね?」
「そう。いろいろ考えているうちに、同期で入ったやつの叔父さんが山梨県警にいるってことをはっと思い出したの。それもわりに上の方の人みたいなんだ。で、そいつに頼み込んでみたわけ。うちの親戚の若い子がその教団に入信しかけていて、それで面倒なことになって困っているんだ、みたいなことを言ってね。だから『さきがけ』について情報を集めている。悪いんだけど、お願い、ね、みたいに。私って、そういうこともわりにうまくできちゃうわけ」
「ありがとう。感謝する」と青豆は言った。
「それでそいつは山梨の叔父さんに電話をかけて事情を話し、叔父さんがそれならということで、『さきがけ』の調査にあたった担当者を紹介してくれた。そういう経緯で、私はその人と電話で直接話をすることができたわけ」
「素晴らしい」
「うん、まあそのときけっこう長く話をして、『さきがけ』についていろんなことを聞いたんだけど、既に新聞なんかに出たことは、青豆さんだってもう知っているだろうから、今はそうじゃない部分、あまり一般には知られていない部分の話をするわね。それでいいかしら?」
「それでいい」
「まずだいいちに『さきがけ』は今までに何度か法的な問題を起こしている。民事の訴訟をいくつか起こされている。ほとんどが土地売買に関するトラブルね。この教団はよほどたっぷり資金を持っているらしくて、近隣の土地を片っ端から買いあさっている。まあ田舎だから、土地が安いっていえば安いんだけど、それにしてもね。そしてそのやり方はいささか強引である場合が多い。ダミー会社を作って隠れ蓑にして、教団がからんでいるとわからないかたちで、不動産を買いまくっている。それでしばしば地主や自治体とトラブルになる。まるで地上げ屋の手口みたいだ。しかし現時点では、どれも民事訴訟で、警察が関与するには至ってない。かなりすれすれのところではあるけれど、まだ表沙汰にはなっていないわけ。ことによってはやばい筋、政治家筋がからんでいるかもしれない。政治の方から手を回されると、警察は適当にさじ加減をすることがあるから。話がもっと膨らんで、検察が出ばってくれば話は違ってくるけど」
「『さきがけ』はこと経済活動に関しては、見かけほどクリーンではない」
「一般信者のことまでは知らないけど、不動産売買の記録をたどる限りでは、資金の運用にあたっている幹部連中はそれほどクリーンとは言えないかもね。純粋な精神性を希求することを目的としてお金を使っているとは、どう好意的に見ても考えにくい。それにこいつらは山梨県内だけじゃなくて、東京や大阪の中心部にも土地や建物を確保している。どれも一等地だよ。渋谷、南青山、松濤{しょうとう}……この教団はどうやら、全国的な規模での展開を視野に入れているみたいね。もし不動産業に商売替えしようとしているのでなければ、ということだけど」
「自然の中に生きて、清く厳しい修行を究極の目的としている宗教団体が、どうしてまた都心に進出してこなくてはならないのかしら?」
「そしてそんなまとまった額のお金は、いったいどこから出てくるんだろうね?」とあゆみは疑問を呈した。「大根や人参を作って売るだけでは、そんな資金が調達できるわけはないもの」
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