しかし今この段階で、その入り組んだ陰謀から身を引くのが簡単ではないことは、天吾にもよくわかっていた。彼は既に<���傍点>それ</傍点>に関わってしまった。ヒッチコック映画の主人公たちのように、知らないうちに何かの陰謀に巻き込まれたのではない。ある程度のリスクが含まれていることは承知の上で、自分で自分を巻き込んだのだ。その装置はもう動き出してしまった。いったん勢いのついたものを止めることはできないし、天吾は疑いの余地なくその装置の歯車のひとつになっている。それも<���傍点>主要な</傍点>歯車のひとつに。彼はその装置の低いうなりを聞き取り、執拗なモーメントを身の内に感じ取ることができた。
小松が電話をかけてきたのは、『空気さなぎ』が二週続けて文芸書ベストセラーの一位になった数日後だった。夜中の十一時過ぎに電話のベルが鳴った。天吾は既にパジャマに着替え、ベッドに入っていた。うつぶせになってしばらく本を読み、そろそろ枕もとの明かりを消して眠ろうとしたところだった。ベルの鳴り方から、相手が小松であることは想像がついた。うまく説明できないのだが、小松のかけてくる電話はいつだってそれとわかる。ベルの鳴り方が特殊なのだ。文章に文体があるように、彼がかけてくる電話は独特なベルの鳴り方をする。
天吾はベッドを出て台所に行き、受話器をとった。本当はそんなものを取りたくなかった。このまま静かに寝てしまいたかった。イリオモテヤマネコだか、パナマ運河だか、オゾン層だか、松尾芭蕉だか、なんでもいいからとにかくここからできるだけ遠くにあるものについての夢を見ていたかった。しかしもし今受話器をとらなかったら、十五分か三十分後に再び同じようにベルが鳴り出すことだろう。小松には時間の観念というものがほとんどない。通常の生活を送っている人間に対する思いやりの気持ちなんてさらさらない。それなら今電話に出た方がまだましだ。
「よう天吾くん、もう寝てたか?」と小松は例によってのんびりした声で切り出した。
「寝かけていたところです」と天吾は言った。
「それは悪かったな」と小松はあまり悪くなさそうに言った。「『空気さなぎ』の売れ行きがずいぶん好調だと、ひとこと言いたくてね」
「それはなによりです」
「ホットケーキみたいに作るそばからどんどん売れている。作るのが追いつかなくて、気の毒に製本所は徹夜で仕事をしている。まあ、かなりの部数が売れるだろうってことは前もって予想はしていたよ、もちろん。十七歳の美少女の書いた小説だ。話題にもなっている。売れる要素は揃っている」
「三十歳の、熊みたいな予備校講師の書いた小説とはわけが違いますから」
「そういうことだ。とはいえ、娯楽性に富んだ内容の小説とは言い難い。セックス?シーンもないし、涙を流すような感動の場面もない。だからここまで派手に売れるとはさすがの俺も想像しなかった」
小松は天吾の反応を見るようにそこで間を置いた。天吾が何も言わないので、彼はそのまま話を続けた。
「それに、ただ単に数が売れているというだけじゃないんだ。評判だって素晴らしい。そのへんの若いのが思いつきひとつで書いた、話題性だけのちゃらちゃら小説とはものが違う。なんといっても内容が優れている。もちろん天吾くんの手堅く見事な文章技術が、それを可能たらしめたわけだけどな。いや、あれはまさに完壁な仕事だった」
<���傍点>可能たらしめた</傍点>。天吾は小松の賞賛を聞き流しながら、指先でこめかみを軽く押さえた。小松が天吾の何かを手放しで褒めるとき、そのあとには決まってあまり好ましくない種類の知らせが控えている。
天吾は言った。「それで小松さん、悪い方のニュースはどんなことなんですか?」
「どうして悪い方のニュースがあるってわかるんだ?」
「だって、この時間に小松さんが僕のところに電話をかけてくるんですよ。悪いニュースがないわけがないでしょう」
「たしかに」と小松は感心したように言った。「たしかにそのとおりだ。天吾くんはさすがに勘がいい」
そんなもの勘じゃない、ただのしがない経験則だ、と天吾は思った。しかし何も言わずに相手の出方を待った。
「そのとおり。残念ながら、あまり好ましくないニュースがひとつある」と小松は言った。そしていかにも意味ありげに間を置いた。彼の一対の目が、暗闇の中でマングースの瞳のようにきらりと光るところが、電話口で想像できた。
「おそらくそれは『空気さなぎ』の著者に関することですね」と天吾は言った。
「そのとおり。ふかえりに関することだ。いささか弱ったことになった。実を言うとね、彼女の行方がしばらくわからなくなっている」
天吾の指はこめかみを押さえ続けていた。「しばらくって、いつから?」
「三日前、水曜日の朝に彼女は奥多摩の家を出て、東京に行った。戎野先生が彼女を送り出した。どこに行くとも言わなかった。電話がかかってきて、今日は山奥の家には戻らず、信濃町のマンションに泊まると言った。マンションにはその日、戎野先生の娘も泊まることになっていた。しかしふかえりはいつまでたってもマンションには帰ってこなかった。それ以来連絡が途絶えている」
天吾はこの三日間の記憶を辿った。しかし思い当たるところはなかった。
「杳{よう}として行方が知れない。それで、ひょっとして天吾くんのところに連絡がなかったかと思ってね」
「連絡はありません」と天吾は言った。彼女が天吾のアパートで一晩を過ごしたのはたしかもう四週間以上前のことだ。
信濃町のマンションに帰らない方がいいと思うと、そのときにふかえりが言ったことを、小松に教えるべきだろうかと天吾は少し迷った。彼女はその場所に何かしら不吉なものを感じていたのかもしれない。しかし結局黙っていることにした。ふかえりを自分の部屋に泊めたことを小松に言いたくなかった。
「変わった子です」と天吾は言った。「連絡も入れずに、一人でどこかにふらつと行ってしまったかもしれませんよ」
「いや、それはない。ふかえりって子には、ああ見えてずいぶん律儀なところがあるんだ。居場所はいつも明確にしている。しょっちゅう電話をかけて、今どこにいて、いつどこに行くというような連絡をしてくる。戎野先生はそう言っていた。だから丸三日まったく連絡がないというのは、ちと普通じゃないことなんだ。まずいことが起こったのかもしれない」
Читать дальше