「ともあれ『さきがけ』はただの農業コミューンであることをやめて、宗教団体になった。それも恐ろしく閉鎖的な宗教団体になった」
「新宗教。もっと率直な言葉で言えば、カルト団体になったわけだ」
「よくわかりませんね。それだけの転換がなされるには、何か大きなきっかけがあったはずです」
先生は自分の手の甲を眺めた。手の甲にはねじくれた灰色の毛がたくさん生えていた。「そのとおり。そこには転換のための大きな契機があったに違いない。私もそれについて長いあいだ考え続けてきた。様々な可能性を考えてみた。しかしさっぱりわからない。その契機とはいったいどんなものだったのだろう? 彼らは徹底した秘密主義をとっていて、内部の事情はうかがい知れないようになっている。そして『さきがけ』の指導者であった深田の名前も、以来まったく表面に出てこなくなった」
「そして三年前に銃撃事件が起こり、『あけぼの』は壊滅した」と天吾は言った。
先生は肯いた。「『あけぼの』を事実上切り捨てた『さきがけ』は生き残り、宗教団体として確実に発展を遂げている」
「つまり、銃撃事件は『さきがけ』にさほど打撃を与えなかったということですね」
「そうだよ」と先生は言った。「それどころか、逆に宣伝になったくらいだ。頭の働く連中だ。すべてを自分たちの都合の良い方向に変えてしまう。しかしいずれにせよ、それはエリが『さきがけ』を出たあとで起こったことだ。さっきも言ったとおり、エリとは直接の関わりを持たない事件であるはずだ」
話題を換えることが要求されているようだった。
「『空気さなぎ』はお読みになりました?」と天吾は質問した。
「もちろんだ」
「どう思われました?」
「興味深い物語だ」と先生は言った。「すぐれて暗示的でもある。しかしそれが何を暗示しているのか、正直なところ私にはわからない。盲目の山羊が何を意味しているのか、リトル?ピープルとは、空気さなぎとは何を意味しているのか」
「その物語はエリさんが『さきがけ』の中で経験した、あるいは目撃した具体的な何かを示唆しているのだと思われますか?」
「あるいはそうかもしれない。しかしどこまでが現実でどこからが幻想なのか、見定めることがむずかしい。ある種の神話のようでもあるし、巧妙なアレゴリーのようにも読みとれる」
「リトル?ピープルは<���傍点>本当にいる</傍点>とエリさんは僕に言いました」
先生はそれを聞いて、しばらくむずかしい顔をしていた。そして言った。「つまり君は『空気さなぎ』に描かれた物語は<���傍点>実際に</傍点>起こったことだと考えているのか」
天吾は首を振った。「僕が言いたいのは、その物語は細部まできわめてリアルに克明に描かれているし、それが小説にとってひとつの大きな強みになっているということです」
「そして君は、君の文章なり文脈を使ってその物語をリライトすることによって、それが示唆する<���傍点>何か</傍点>をより明確なかたちに置き換えようとしている。そういうことかな?」
「うまくいけばということですが」
「私の専門は文化人類学だ」と先生は言った。「学者であることは既にやめたが、精神は今でも身体に染み着いている。その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない。言っていることはわかるかな?」
「わかると思います」
「おそらくそれと同じ作業を君は要求されている」
天吾は両手を膝の上で広げた。「むずかしそうです」
「しかしやってみるだけの価値はありそうだ」
「僕にその資格があるかどうかさえわかりません」
先生は天吾の顔を見た。彼の目には今では特別な光があった。
「私が知りたいのは『さきがけ』の中でエリの身に何が起こったのかということだ。そしてまた深田夫婦がどのような運命を辿ったのかということだ。この七年間、私はそれを解明しようと自分なりに努めてきたが、結局手がかりひとつ掴めなかった。そこに立ちはだかった壁は私の歯が立たぬほどぶ厚く堅固なものだった。あるいは『空気さなぎ』という物語の中に、謎を解明するための鍵が隠されているかもしれない。たとえわずかな可能性であっても、その可能性があるのなら、進んでそれに賭けたい。君にその資格があるかどうかまでは私にはわからん。しかし君は『空気さなぎ』を高く評価しているし、深くのめりこんでいる。それはひとつの資格になるかもしれない」
「イエスかノーではっきり確認しておきたいことがひとつあります」と天吾は言った。「今日ここにうかがったのはそのためです。『空気さなぎ』を書き直す許可を、僕は先生から与えられたのでしょうか?」
先生は肯いた。そして言った。「君が書き直した『空気さなぎ』を私も読んでみたい。エリも君のことをずいぶん信用しているようだ。そんな相手は君のほかにはいない。もちろんアザミと私を別にすればということだが。だからやってみるといい。作品は君に一任しよう。つまり答えはイエスだ」
いったん言葉が途切れると、沈黙はまるで決められた運命のように、その部屋に重く腰を据えた。そのときにちょうどふかえりがお茶を運んできた。二人の話が終わるのを見計らっていたみたいに。
帰り道は一人だった。ふかえりは犬を散歩させるために外に出て行った。天吾は電車のやってくる時刻にあわせてタクシーを呼んでもらい、二俣尾駅まで行った。そして立川で中央線に乗り換えた。
三鷹駅で、天吾の向かいに親子連れが座った。ござつばりとした身なりの母と娘だった。どちらの着ているものも決して高価な衣服ではないし、新しくもない。しかし清潔で、手入れが行き届いている。白いところはあくまで白く、アイロンもきれいにかけてある。娘は小学校の二年生か三年生か、そんなところだ。目の大きな、顔立ちの良い女の子だ。母親は痩せて、髪をうしろでまとめ、黒縁の眼鏡をかけ、色槌せたぶ厚い布製バッグを持っていた。バッグの中には何かがたっぷり詰まっているようだ。彼女もなかなか整った顔をしているのだが、両目の外側の脇に神経的な疲れがにじみ出ていて、それが彼女をおそらくは実際以上に老けて見せていた。まだ四月の半ばだというのに、日傘を持っていた。傘はまるで干からびた棍棒のようにぎゅっと堅く巻かれていた。
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