「エリの身に何があったにせよ、心を無理にこじ開けるようなことはしたくなかった。この子に必要なのはおそらく時間の経過なのだと思った。だからあえて何も質問しなかったし、無言のままでいても、気にしない風を装っていた。エリはいつもアザミと一緒だった。アザミが学校から帰ってくると、食事もそこそこに二人きりで部屋に閉じこもった。そこで二人で何をしていたのか、私は知らない。あるいは二人のあいだだけには会話のようなものが成立していたのかもしれない。しかし私はとくに詮索はしなかったし、好きにさせておいた。それに口をきかないことをべつにすれば、生活を共にする上で問題はまったくなかった。頭のいい子だし、言うこともよく聞いてくれた。アザミとは無二の親友になった。ただしその時期、エリは学校には通えなかった。ひと言もしゃべれない子供を学校にやることはできないからね」
「先生とアザミさんはそれまで二人暮らしだったのですか?」
「妻は十年ばかり前に死んだ」と先生は言った。そして少し間を置いた。「車の追突事故で、即死だった。私たち二人があとに残された。遠縁にあたる女性がこの近所に住んでいて、家事全般はこの人がやってくれている。娘たちの面倒も見てくれる。妻を亡くしたことは、私にとってもアザミにとっても厳しくつらいことだった。あまりにも突然な死に方だったし、心の準備をする余裕もなかったからね。だからエリがうちに来て一緒に暮らすようになったのは、そこに至る経緯がどうであれ嬉しいことだった。たとえ会話はなくても、彼女がいてくれるだけで私たちは不思議に安らかな気持ちになれた。そしてこの七年のあいだに、エリも少しずつではあるけれど言葉を取り戻していった。うちに来た頃に比べれば会話能力は目に見えて向上した。他の人には普通じゃない奇妙なしゃべり方に聞こえるだろう。しかし私たちからすれば格段の進歩だ」
「エリさんは今、学校に通っているのですか?」
「いや、学校には通っていない。いちおうかたちとして籍を置いているだけだ。学校生活を続けるのは現実的に無理だった。だから私や、うちに来る学生たちが暇を見つけては、個人的に勉強を教えた。とはいっても所詮は細切れなもので、系統的な教育と呼べるものではまったくない。自分では本を読むことがむずかしかったので、機会があれば声に出して読んでやるようにした。市販の朗読テープも与えた。それが彼女の与えられた教育のほぼすべてだ。しかし驚くほど聡明な子だ。自分が吸収しようと決めたものは素速く、深く有効に吸収できる。そういう力は圧倒的に優れている。しかし興味のないことにはとんと見向きもしない。その差はとても大きい」
応接室のドアはまだ開かなかった。湯を沸かし、お茶をいれるのに時間がかかっているのだろう。
「そしてエリさんはアザミさんを相手に『空気さなぎ』を物語ったわけですね?」と天吾は尋ねた。
「さっきも言ったように、エリとアザミは夜になると部屋に二人で閉じこもっていた。何をやっていたのかはわからない。それは二人だけの秘密だった。しかしどうやらあるときから、エリが物語を語ることが、二人のコミュニケーションの主要なテーマになっていたらしい。エリが語ることをアザミがメモかテープにとり、それを私の書斎にあるワードプロセッサーを使って文章にしていった。その頃からエリは徐々に感情を取り戻していったようだ。全体を膜のように被っていた無関心さが消え、顔にもわずかに表情が戻り、以前のエリに近くなってきた」
「そこから回復が始まったのですね?」
「全面的にではない。あくまで部分的にだ。しかしそのとおり。おそらくは物語を語ることによって、エリの回復が始まったのだろう」
天吾はそのことについて考えた。それから話題を変えた。
「深田夫妻の消息が途絶えていることについて、警察には相談されたのですか?」
「ああ、地元の警察に行ったよ。エリの話はせず、中にいる友人と長期間にわたって連絡が取れない、ひょっとして拘束されているのではないかという話をした。しかしその時点では彼らにも手の出しようがなかった。『さきがけ』の敷地は私有地であり、そこで犯罪行為があったという確証がない限り、警察は中に足を踏み入れることはできない。いくらかけあっても相手にしてもらえなかった。そして一九七九年を境に、内部に捜査の手を入れるのは事実上不可能になった」
先生はそのときのことを思い出すように、何度か首を振った。
「一九七九年に何かがあったのですか?」と天吾は質問した。
「その年に『さきがけ』は宗教法人の認可を受けた」
天吾はしばらくのあいだ言葉を失った。「宗教法人?」
「実に驚くべきことだ」と先生は言った。「『さきがけ』はいつの間にか宗教法人『さきがけ』になっていたんだ。山梨県知事が正式にその認可を与えた。いったん宗教法人という名前がつくと、その敷地内に警察が捜査に入るのは大変むずかしくなる。憲法で保障された信仰の自由を脅かすことになるからね。そしてどうやら『さきがけ』は法務担当者を置いて、かなり確固とした防御態勢を整えているらしかった。地方の警察では太刀打ちができない。
私も警察で宗教法人の話を聞かされて、ひどく驚いた。寝耳に水というか、最初のうちとても信じられなかったし、関係書類を見せてもらい、事実を自分の目で確認したあとでも、簡単には呑み込めなかった。深田とは古いつきあいだ。性格や人柄は承知している。私は文化人類学をやっていた関係で、宗教とのかかわりは浅くない。しかし彼は私とは違って根っから政治的人間で、理詰めで話を進める男だ。どちらかといえば宗教全般を生理的に嫌悪していた。たとえ戦略上の理由があったとしても、宗教法人の認可など受けるはずがない」
「それに宗教法人の認可を受けるのは、たやすいことではないはずです」
「必ずしもそうではない」と先生は言った。「数多くの資格審査があり、役所の煩雑な手続きをひとつひとつ通過しなくてはならないことは確かだが、裏の方から政治的な働きかけをすれば、そのような関門をクリアすることはある程度簡便になる。何がまともな宗教で、何がカルトかという線引きはもともと微妙なものだ。確たる定義はなく、解釈ひとつだ。そして解釈の余地があるところには、常に政治力や利権が介入する余地が生まれる。いったん宗教法人の認証を受ければ、税金の優遇措置も受けられるし、法的にもあつく保護される」
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