青豆はトム?コリンズのグラスをとって静かにすすった。「まあ、だいたい同じようなところかな」
「恋人はいない?」
「そういうのはつくらないことにしているの。面倒なのは嫌だから」
「決まった男は面倒なんだ」
「まあね」
「でもときどき我慢できないくらい<���傍点>やりたく</傍点>なる」とあゆみは言った。
「<���傍点>発散したく</傍点>なる、という表現の方が好みに合っているけど」
「<���傍点>豊かな一夜を持ちたく</傍点>なる、というのは?」
「それも悪くない」
「いずれにせよ、一晩かぎりの、尾を引かないやつ」
青豆は肯いた。
あゆみはテーブルに頬杖をついて、それについて少し考え込んでいた。「私たちけっこう共通したところがあるかもね」
「あるかもしれない」と青豆は認めた。ただしあなたは婦人警官で、私は人を殺している。私たちは法律の内側と外側にいる。それはきっと大きな違いになることでしょうね。
「こういうことにしようよ」とあゆみは言った。「私たちは同じ損保会社に勤めている。会社の名前はヒミツ。青豆さんが先輩で、私が後輩。今日は職場でちっとばかり面白くないことがあったので、二人でうさばらしにお酒を飲みに来た。そしてわりといい気分になっている。そういうシチュエーションでいいかな?」
「それはいいけど、損害保険のことなんてほとんど何も知らないよ」
「そのへんはまかせといてちょうだい。如才なく話を作るのは、私のもっとも得意とするところだから」
「まかせる」と青豆は言った。
「ところで、私たちの真後ろのテーブルに中年っぽい二人連れがいて、さっきから物欲しそうな目であちこちを見ているんだけど」とあゆみが言った。「さりげなく振り向いて、チェックしてみてくれる」
青豆は言われたとおりさりげなく後ろを振り向いた。ひとつあいだを置いたテーブル席に、中年の男が二人座っていた。どちらもいかにも仕事を終えて一息ついているサラリーマンというふうで、スーツにネクタイを結んでいる。スーツはくたびれていないし、ネクタイの好みも悪くなかった。少なくとも不潔な感じはしない。一人はおそらく四十代後半、一人は四十前に見えた。年上の方は痩せて面長で、額の生え際が後退している。若い方には、昔は大学のラグビー部で活躍したが、最近は運動不足で肉がつき始めたという雰囲気があった。青年の顔立ちを残しつつも、顎のまわりがそろそろ分厚くなりかけている。二人はウィスキーの水割りを飲みながら談笑していたが、視線はたしかに店内をそれとなく物色していた。
あゆみがその二人組を分析した。「見たところ、こういう場所にはあまり慣れてないみたい。遊びに来たんだけど、女の子にうまく声がかけられない。それに二人ともたぶん妻帯者だね。いくぶん後ろめたそうな雰囲気もある」
青豆は相手の的確な観察眼に感心した。話をしながらいつの間にそれだけのことを読み取ったのだろう。警察官一家というだけのことはあるのかもしれない。
「青豆さん、あなたは髪が薄い方が好みなんでしょ? だったら私はがっしりした方をとる。それでかまわない?」
青豆はもう一度後ろを向いた。髪が薄い方の頭のかたちはまずまずというところだった。ショーン?コネリーからは何光年か距離があるけれど、とりあえず及第点は与えられる。なにしろクイーンとアバの音楽を続けざまに聴かされた夜だ。贅沢は言えない。
「いいよ、それで。でもどうやってあの人たちに私たちを誘わせるの?」
「悠長に夜明けまで待っているわけにはいかない。こっちから押しかけるのよ。にこやかに友好的に、かつ積極的に」とあゆみは言った。
「本気で?」
「もちろん。私が行って軽く話をつけてくるから、まかせておいて。青豆さんはここで待っててくれればいい」とあゆみは言った。トム?コリンズをひとくち勢いよく飲み、両手の手のひらをごしごしとこすった。それからグッチのショルダーバッグをいきおいよく肩にかけ、にっこりと微笑んだ。「さあ、警棒術のお時間」
第12章 天吾
あなたの王国が私たちにもたらされますように
先生はふかえりの方を向いて、「エリ、悪いけれどお茶をいれて持ってきてくれないか」と言った。
少女は立ち上がって応接室を出て行った。静かにドアが閉められた。天吾がソファの上で呼吸を整え、意識を立て直すのを、先生は何も言わずに待っていた。先生は黒縁の眼鏡を外し、それほど清潔とも見えないハンカチでレンズを拭き、かけなおした。窓の外の空を何か小さな黒いものが素速く横切っていった。鳥かもしれない。あるいは誰かの魂が世界の果てまで吹き飛ばされていったのかもしれない。
「申し訳ありません」と天吾は言った。「もう大丈夫です。なんともありません。お話を続けて下さい」
先生は肯いて話し始めた。「激しい銃撃戦の末に分派コミューン『あけぼの』が壊滅したのは一九八一年のことだ。今から三年前だ。エリがここにやってきた四年後にその事件は起こった。しかし『あけぼの』の問題はとりあえず今回のことには関係しない。
エリが私たちと一緒に暮らすようになったのは十歳のときだ。うちの玄関先に何の予告もなく現れたエリは、私がそれまでに見知っていたエリとは一変していた。もともと無口で、知らない人にはうちとけない子供ではあった。それでも小さい頃から私にはなついていて、よく話をしてくれた。しかしそのときの彼女は、誰に対しても口をきけない状態になっていた。言葉そのものを失ってしまったようだった。話しかけても、それに対して肯くか首を振るか、その程度のことしかできなかった」
先生の話し方はいくらか早口になり、声の響きもより明瞭になっていた。ふかえりが席を外しているあいだにある程度話を進めようという気配がうかがえた。
「この山の上まで辿り着くにはずいぶん苦労があったようだ。いくらかの現金と、うちの住所を書いた紙は持っていたが、なにしろずっと孤立した環境の中で育ってきたし、その上まともに口がきけないわけだからね。それでもメモを片手に交通機関を乗り継いで、ようやくうちの玄関先までやって来た。
彼女の身に何か良くないことが起こったと一目でわかった。手伝いをしてくれている女性と、アザミが二人でエリの面倒を見てくれた。数日後エリがいちおう落ち着きをみせると、私は『さきがけ』に電話をかけ、深田と話をしたいと言った。しかし深田は今電話には出られない状態にあると言われた。どんな状態なのかと尋ねても、教えてもらえなかった。それでは奥さんと話したいと言った。奥さんも電話には出られない、と言われた。結局どちらとも話はできなかった」
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