「タカシマはたのしかった」とふかえりは言った。
先生は微笑んだ。「小さな子供にとってはきっと楽しいところなんだろう。でも成長してある年齢になり、自我が生まれてくると、多くの子供たちにとってタカシマでの生活は生き地獄に近いものになってくる。自分の頭でものを考えようとする自然な欲求が、上からの力で押しつぶされていくわけだからな。それは言うなれば、脳味噌の纏足のようなものだ」
「テンソク」とふかえりは尋ねた。
「昔の中国で、幼い女の子の足を小さな靴に無理矢理はめて、大きくならないようにした」と天吾は説明した。
ふかえりは何も言わず、その光景を想像していた。
先生は続けた。「深田の率いた分離派の中核はもちろん、彼と行動を共にしてきた紅衛兵もどきの元学生たちだったが、それ以外にも彼らのグループに加わりたいという人々が出てきて、分離派は雪だるま式に膨らみ、思ったより大人数になった。理想を抱いてタカシマに入ってはみたが、そのあり方に飽き足らず、失望を感じていた連中も、まわりに少なからずいたんだ。その中にはヒッピー的なコミューン生活を目指す連中もいれば、大学紛争で挫折した左翼もいれば、ありきたりの現実生活には飽き足らず、新しい精神世界を求めてタカシマに入ったというものもいた。独身者もいれば、深田のような家族連れもいた。寄り合い所帯というか、雑多な顔ぶれだ。深田が彼らのリーダーをつとめた。彼は生まれつきのリーダーだった。イスラエル人を率いるモーゼのように。頭が切れて、弁も立ち、判断力に優れている。カリスマ的な要素も具わっていた。身体も大きい。そうだな、ちょうど君くらいの体格だ。人々は当然のことのように彼をグループの中心に据え、彼の判断に従った」
先生は両手を広げて、その男の身体の大きさを示した。ふかえりはその両手の幅を眺め、それから天吾の身体を眺めた。でも何も言わなかった。
「深田と私とでは性格も見かけもまったく違っている。彼は生来の指導者で、私は生来の一匹狼だ。彼は政治的な人間で、私はどこまでも非政治的な人間だ。彼は大男で、私はちびだ。彼はハンサムで押し出しがよく、私は妙なかっこうの頭を持ったしがない学者だ。しかしそれでもなおかつ、我々は仲の良い友人同士だった。お互いを認め合い、信用していた。誇張ではなく、一生に一人の友だちだった」
深田保の率いるグループは山梨県の山中に、目的にあった過疎の村をひとつ見つけた。農業の後継者が見つからず、あとに残された老人たちだけでは畑仕事ができなくて、ほとんど廃村になりかけている村だ。そこにある耕地や家をただ同然の価格で手に入れることができた。ビニールハウスもついていた。役場も、既存の農地をそのまま引き継いで農業を続けるという条件で補助金を出した。少なくとも最初の何年かは、税金の優遇措置も受けられることになった。それに加えて、深田には個人的な資金源のようなものがあった。それがどこからやってくるどういう種類の金なのか、戎野先生にもそれはわからない。
「その資金源については深田は口が堅く、誰にも秘密を明かさなかった。でもとにかく<���傍点>どこか</傍点>から、深田はコミューンの立ち上げに必要とされる少なからぬ額の金を集めてきた。彼らはその資金で農機具を揃え、建築資材を購入し、準備金を蓄えた。自分たちで既存の家屋の改修をし、三十人のメンバーが生活を送れる施設を作り上げた。それが一九七四年のことだ。新生のコミューンは『さきがけ』という名前で呼ばれることになった」
さきがけ? と天吾は思った。名前には聞き覚えがある。しかしどこでそれを耳にしたのか思い出せない。記憶をたどることができない。それが彼の神経をいつになく苛立たせた。先生は話を続けた。
「新しい土地に慣れるまでの何年かは、コミューンの運営は厳しいものになるだろうと深田は覚悟していたのだが、ものごとは予想していたより順調に進んだ。天候に恵まれたということもあるし、近隣の住民が援助の手をさしのべてくれたということもある。人々はリーダーである深田の誠実な人柄に好意を持ったし、『さきがけ』の若いメンバーたちが汗を流して熱心に農業に打ち込んでいる姿を見て、すっかり感心してしまった。地元の人々がよく顔を見せて、あれこれ有益な助言を与えてくれた。そのようにして彼らは農業についての実地の知識を身につけ、土地と共に生きる方法を覚えていった。
基本的にはそれまでタカシマで学んできたノゥハウを、『さきがけ』はそのまま踏襲したわけだが、いくつかの部分で独自の工夫をした。たとえば完全な有機農法に切り替えた。防虫のための化学薬品を使わず、有機肥料だけで野菜を栽培するようにした。そして都会の富裕層を対象にして食材の通信販売を始めた。その方が単価が高くとれるからだ。いわゆるエコロジー農業の走りだった。目のつけ所がよかった。メンバーの多くは都会育ちだったから、都会の人間がどんなものを求めているかをよく知っていた。汚染のない、新鮮でうまい野菜のためなら、都会人は進んで高い金を払う。彼らは配送業者と契約を結び、流通を簡略化し、都会に迅速に食品を送る独自のシステムを作り上げた。『土のついた不揃いな野菜』を逆に売り物にしたのも彼らが走りだった」
「私は何度か深田の農場を訪れて、彼と話をした」と先生は言った。「彼は新しい環境を得て、そこで新しい可能性を試みることで、とても生き生きとして見えた。そのあたりが深田にとってはいちばん平穏で希望に満ちた時代だったかもしれない。家族も新しい生活に馴染んだように見えた。『さきがけ』農場の評判を耳にし、そこに加わりたいと希望してやってくる人々も増えてきた。通販を通じて、その名前は徐々に世間に知られていったし、コミューンの成功例としてメディアに取り上げられもした。金銭や情報に追いまくられる現実の世界を逃れ、自然の中で額に汗して働きたいという人間が世間には少なからずいたし、『さきがけ』はそういう層を引き寄せていった。希望者がやってくれば面接をして審査をし、役に立ちそうであればメンバーに加えた。来るものは誰でも受け入れたわけじゃない。メンバーの質とモラルは高く保たれなくてはならなかった。農業技術を身につけた人や、厳しい肉体労働に耐えられる健康な人々が求められた。男女の比率を半々に近づけたいということもあり、女性も歓迎された。人が増えれば、農場の規模は大きくなっていくわけだが、余っている耕地や家屋は近辺にまだいくつもあったから、施設を拡大していくのはさしてむずかしいことではなかった。農場の構成員も最初のうちは若い独身者が中心だったが、家族連れで加わる人々も徐々に増えていった。新しく参画した中には、高等教育を受けて専門職についていた人たちもいた。たとえば医師やエンジニアや教師や会計士といったような。そういう人々は共同体に歓迎された。専門技術が役に立つからね」
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