先生はしばらく集中して何かを考えていた。静まりかえった部屋の中では、彼の頭が回転している音が聞こえそうだった。それから先生は言った。「その小松という編集者がこの計画を考えつき、君が技術的な側面からそれに協力している」
「そのとおりです」
「私はもともとが学者であって、正直なところ小説の類はあまり熱心には読まない。だから小説の世界のしきたりはよくわからないんだが、君たちのやろうとしていることは、私には一種の詐欺行為のように聞こえてならない。私が間違っているのだろうか?」
「いいえ、間違ってはいません。僕にもそのように聞こえます」と天吾は言った。
先生は軽く顔をしかめた。「しかし君はその計画に倫理上の疑義を呈しながら、なおかつそれに進んで関わろうとしている」
「進んでというのではありませんが、関わろうとしていることは確かです」
「それはなぜだろう?」
「それは僕がこの一週間ばかり、繰り返し自分に問いかけてきた疑問です」と天吾は正直に言った。
先生とふかえりは黙って天吾の話の続きを待っていた。
天吾は言った。「僕の持ち合わせている理性も常識も本能も、こんなことからは一刻も早く手を引いた方がいいと訴えています。僕はもともと慎重で常識的な人間です。賭け事や冒険を好みません。どちらかといえば臆病なくらいでしょう。でも今回に限っていえば、小松さんが持ち込んできたこの危なっかしい話に、どうしてもノーと言うことができないんです。その理由はただひとつ、『空気さなぎ』という作品に強く心を惹かれているからです。ほかの作品だったら、一も二もなくそんな話は断っています」
先生はしばらく天吾の顔を珍しそうに見ていた。「つまり君は計画の詐欺的な部分には興味は持たないが、作品を書き直すことには深い興味を持っている。そういうことかな?」
「そのとおりです。<���傍点>深い興味</傍点>という以上のものです。『空気さなぎ』がもし書き直されなくてはならないのだとしたら、僕としてはその作業をほかの人間の手に委ねたくはありません」
「なるほど」と先生は言った。そして何か酸っぱいものを間違えて口に含んだような顔をした。
「なるほど。君の気持ちはおおむね理解できたような気がする。それでは小松という人物の目的はなんだろう? 金か、それとも名声か?」
「小松さんの気持ちは正直言って、僕にもよくわかりません」と天吾は言った。「でも金銭や名声よりは、もっと大きいものが彼の動機になっているんじゃないかという気がします」
「たとえば?」
「本人はおそらくそんなことは認めないでしょうが、小松さんも文学に懸かれた人間の一人です。そういう人たちの求めていることは、ただひとつです。一生のうちにたったひとつでもいいから間違いのない本物を見つけることです。それを盆に乗せて世間に差し出すことです」
先生はしばらく天吾の顔を眺めていた。それから言った。「つまり君たちにはそれぞれに違う動機がある。金銭でも名声でもない動機が」
「そういうことになると思います」
「しかし動機の性質がどうであれ、君自身が言うように、ずいぶん危なっかしい計画だ。もしどこかの段階で事実が露見したら、これは間違いなくスキャンダルになるし、世間の非難を受けるのは君たち二人だけに留まらないだろう。エリの人生は十七歳にして致命的な傷を負うことになるかもしれない。それがこの件に関して私がもっとも憂慮していることだ」
「心配なさるのは当然です」と天吾は肯いて言った。「おっしゃるとおりです」
黒々として豊かな一対の眉毛の間隔が一センチばかり縮まった。「にもかかわらず、たとえ結果的にエリを危険にさらすことになっても、君は『空気さなぎ』を自分の手で改筆したいと望んでいる」
「さっきも申し上げたように、その気持ちは理性にも常識にも手の及ばないところから出てきたものだからです。僕としてはもちろん、できるかぎりエリさんを護りたいと思います。しかし彼女に危害が及ぶようなことは決してありません、と請け合うことはできません。それは嘘になります」
「なるほど」と先生は言った。そして論旨を区切るように咳払いをひとつした。「何はともあれ、君は正直な人間らしい」
「少なくともできる限り率直になろうとしています」
先生はズボンの膝の上にある自分の両手を、見慣れないものを見るようにしばし眺めた。手の甲を眺め、ひっくり返して手のひらを眺めた。それから顔を上げて言った。「それで、小松という編集者はその計画が本当にうまく行くと考えているのかな?」
「『ものごとには必ず二つの側面がある』というのが彼の意見です」と天吾は言った。「良い面と、それほど悪くない面の二つです」
先生は笑った。「なかなかユニークな見解だ。小松という人物は楽天家なのか、自信家なのか、どちらなんだろう?」
「どちらでもありません。ただシニカルなだけです」
先生は軽く首を振った。「その人物はシニカルになると、楽天的になる。あるいは自信家になる。そういうことかな?」
「そういう傾向はあるかもしれません」
「ややこしい人間みたいだ」
「かなりややこしい人間です」と天吾は言った。「でも愚かではありません」
先生は息をゆっくりと吐いた。それからふかえりの方を向いた。「エリ、どうだ、君はこの計画についてどのように思う?」
ふかえりは空間の匿名的な一点をしばらく見つめていた。それから言った。「それでいい」
先生はふかえりの簡潔な発言に、必要な言葉を補った。「それはつまり、この人に『空気さなぎ』を書き直してもらってもかまわないということなんだね?」
「かまわない」とふかえりは言った。
「そのせいで、君は面倒な目にあうかもしれないよ」
ふかえりはそれには答えなかった。カーディガンの襟を首のところで、今まで以上に堅くぎゅっとあわせただけだった。しかしその動作は彼女の決意の揺らぎなさを端的に示していた。
「おそらくこの子が正しいのだろう」、先生はあきらめたように言った。
天吾は拳になったふかえりの小さな両手を眺めていた。
「しかしもうひとつ問題がある」と先生は天吾に言った。「君とその小松という人物は、『空気さなぎ』を世に出して、エリを小説家に仕立てようとしている。しかしこの子には読字障害の傾向がある。ディスレクシアだ。そのことは知っていたかね?」
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