「そのコミューンではタカシマのような原始共産制的なシステムはとられたのですか?」と天吾は質問した。
先生は首を振った。「いや、深田は財産の共有制を退けた。彼は政治的には過激だったが、冷静な現実主義者でもあった。彼が指向したのはもっとゆるやかな共同体だった。アリの巣もどきの社会をこしらえることは、彼の目指すところではなかった。全体をいくつかのユニットに分割し、そのユニットの中でゆるやかな共同生活を送るという方式をとった。私有財産を認め、報酬もある程度配分された。自分の属しているユニットに不満があれば、ほかのユニットに移ることも可能だったし、『さきがけ』そのものから立ち去ることも自由だった。外部との交流も自由だったし、思想教育や洗脳のようなこともほとんど行われなかった。そういう風通しのいい自然な体制をとった方が、労働効率がより高くなることを、彼はタカシマにいるときに学んでいた」
深田の指導のもとに「さきがけ」農場の運営は順調に軌道に乗っていた。しかしやがてコミューンは二つの派にはっきり分かれるようになった。このような分裂は、深田が設定したゆるやかなユニット制がとられている限り、不可避だった。ひとつは武闘派で、深田がかつて組織した紅衛兵ユニットを核とする革命指向グループだ。彼らは農業コミューン生活を、あくまで革命の予備段階として捉えていた。農業をしながら潜伏し、時がくれば武器をとって立ち上がる——それが彼らの揺らぎのない姿勢だった。
もうひとつは穏健派で、反資本主義体制という点では武闘派と共通しているものの、政治とは距離を置き、自然の中で自給自足の共同生活を送ることを理想としていた。数としては穏健派が農場内で多数を占めていた。武闘派と穏健派は水と油のようなものだ。ふだん農作業をしているぶんには、目的はひとつだからとくに問題は起きないのだが、コミューン全体の運営方針について何かしらの決定が求められるときには、意見はいつも二つに割れた。歩み寄りの余地が見つけられないこともしばしばあった。そんなときには激しい論争が持ち上がった。こうなればコミューンの分裂は時間の問題だ。
時が経過するにつれ、中間的な存在が受け入れられる余地はどんどん狭くなっていった。やがて深田も、どちらかの立場を選ばなくてはならないところに最終的に追い込まれた。その頃には彼も、一九七〇年代の日本には革命を起こす余地も気運もないことをおおむね悟っていた。そして彼がもともと念頭に置いていたのは、可能性としての革命であり、更にいえば比喩としての、仮説としての革命だった。そのような反体制的、破壊的意思の発動が健全な社会にとって不可欠だと信じていた。いわば健全なスパイスとして。ところが彼の率いてきた学生たちが求めたのは、本物の血が流れる、実物の革命だった。むろん深田にも責任はある。時代の流れに乗って血湧き肉躍る話をして、そんなあてもない神話を学生たちの頭に植え付けたのだ。これはカッコつきの革命ですよ、とは決して言わなかった。誠実な男だったし、頭も切れた。学者としても優秀だった。しかし残念ながら、能弁すぎて自分の言葉に酔ってしまう傾向があり、深いレベルでの内省と実証に欠けるところも見受けられた。
そのようにして、「さきがけ」コミューンは二つに決別した。穏健派は「さきがけ」として最初の村落にそのまま残り、武闘派は五キロばかり離れたべつの廃村に移り、そこを革命運動の拠点とした。深田の一家はほかのすべての家族連れと同じく、「さきがけ」に留まることになった。それはおおむね友好的な分離だった。分派コミューンを立ち上げるのに必要な資金は、深田がまたどこからか都合してきたようだ。分離のあとも二つの農場は表面的な協力関係を維持した。必要な物資のやりとりもあったし、経済的な理由から生産物の流通も同じルートを利用した。小さな二つの共同体が生き延びていくには、お互いに助け合う必要があった。
しかし旧来の「さきがけ」と新しい分派コミューンとのあいだの人々の行き来は、時を経ずして事実上途絶えた。彼らの目指すところはあまりにも異なっていたからだ。ただし深田と、彼がかつて率いていた先鋭的な学生たちのあいだには、分離後も交流が続いた。深田は彼らに対して強い責任を感じていた。もともとは彼が組織化し、山梨の山中まで率いてきたメンバーなのだ。自分の都合で簡単に放り出すことはできない。それに加えて分派コミューンは、深田が握っている秘密の資金源を必要としていた。
「深田は一種の分裂状態にあったと言えるだろう」と先生は言った。「彼はもう革命の可能性やロマンスを本心から信じてはいなかった。しかし、かといってそれを全否定することもできなかった。革命を全否定することは、彼がこれまでに送ってきた歳月を全否定することであり、みんなの前で自らの誤りを認めることだった。それは彼にはできない。そうするにはプライドが高すぎたし、また自分が身を引くことによって学生たちのあいだに生じるであろう混乱を案じた。その段階では深田はまだある程度学生たちをコントロールする力を持っていたからだ。
そんなわけで彼は『さきがけ』と分派コミューンとのあいだを行き来する生活を送ることになった。深田は『さきがけ』のリーダーを務め、その一方で武闘派分派コミューンの顧問役を引き受けた。革命をもはや心から信じていない人間が、人々に革命理論を説き続けたわけだ。分派コミューンのメンバーたちは農作業の傍ら、武闘訓練と思想教育を厳しく行った。そして政治的には、深田の意思とは逆にますます先鋭化していった。そのコミューンは徹底した秘密主義をとり、部外者をまったく中に入れなくなった。公安警察は武装革命を唱える彼らを要注意団体として緩やかな監視下においた」
先生はもう一度ズボンの膝を眺めた。それから顔を上げた。
「『さきがけ』が分裂したのは一九七六年のことだ。エリが『さきがけ』から脱出し、うちにやってきたのはその翌年だった。そしてその頃から、分派コミューンは『あけぼの』という新しい名前を持つようになった」
天吾は顔を上げ、目を細めた。「ちょっと待って下さい」と彼は言った。あけぼの。その名前にもはっきり聞き覚えがある。しかし記憶はなぜかひどく漠然としてとりとめがなかった。彼が手で探りとれるのは、事実<���傍点>らしきもの</傍点>のいくつかのあやふやな断片だけだった。「ひょっとしてその『あけぼの』というのは、少し前に大きな事件を起こしませんでしたか?」
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