読字障害を持った人が文章を書くことにおいても、文章を読むときと同じような困難さを一般的に感じるのかどうか、天吾は知らない。しかしふかえりのケースについて言えば、どうやらそういうことらしい。彼女は書くことについても、読むのと同じ程度の困難さを覚えている。
このことを知ったら、小松はいったいなんと言うだろう。天吾は思わずため息をついた。この十七歳の少女には生まれつきの読字障害があり、本を読むことも、長い文章を書くこともおぼつかない。会話をするときにも(意図的にそうしているのでないとしたら)だいたい一度にひとつのセンテンスしかしゃべれない。たとえかっこうだけにせよ、それをプロの小説家に仕立て上げるなんて、どだい無理な相談だ。たとえ天吾が『空気さなぎ』をうまく書き直し、作品が新人賞をとり、出版されて評価されたとしても、世間の目を欺き続けることはできない。最初はうまくいっても、そのうちに「何かおかしい」と人々は考え始めるに決まっている。もしそこで事実が露見したら、関係者全員がきれいに首を揃えて破滅することになるだろう。天吾の小説家としてのキャリアもまたそこで——まだろくすっぽ始まってもいないうちから——あっさり命脈を断たれてしまう。
だいたいこんな欠陥だらけの計画がうまく運ぶわけがないのだ。最初から薄氷を踏むようなものだと思っていたが、今となってはそんな表現だって生やさし過ぎる。足を乗せる前から既に氷はみしみしと音を立てている。うちに帰ったら小松に電話をかけて、「すみません、小松さん、この件から僕は手を引きます。あまりにも危険すぎる」と言うしかない。それがまっとうな神経を持ち合わせた人間のやることだ。
しかし『空気さなぎ』という作品について考え出すと、天吾の心は激しく混乱し、分裂した。小松の立てた計画がどれほど危なっかしいものであれ、『空気さなぎ』の改稿をここでやめてしまうことは、天吾にはできそうになかった。書き直しに入る前であれば、あるいはできたかもしれない。しかしもう無理だ。彼は今ではその作品に首まではまり込んでいた。その世界の空気を呼吸し、その世界の重力に同化していた。その物語のエキスは彼の内臓の壁にまで染み込んでいた。その物語は天吾の手による改変を切実に求めていたし、彼はその求めをひしひしと感じ取ることができた。それは天吾にしかできないことであり、やるだけの価値のあることであり、<���傍点>やらなくてはならないこと</傍点>だった。
天吾は座席の上で目を閉じ、このような状況に自分がどう対処すればいいのかとりあえずの結論を出そうと試みた。しかし結論は出なかった。混乱し分裂した人間に筋の通った結論なんて出せるわけがない。
「アザミは、君が話すことをそのまま文章にするの?」と天吾は尋ねた。
「はなすとおりに」とふかえりは答えた。
「君は話し、彼女がそれを書く」と天吾は尋ねた。[でもちいさなコエではなさなくてはならない」
「どうして小さな声で話さなくてはならないんだろう?」
ふかえりは車内を見まわした。ほとんど乗客はいなかった。母親と小さな二人の子供が、向かいの座席の少し離れたところに座っているだけだ。三人はどこか楽しいところに出かける途中のように見えた。世の中にはそういう幸福な人々も存在するのだ。
「<���傍点>あのひとたち</傍点>にきかれないように」とふかえりは小さな声で言った。
「あの人たち?」と天吾は言った。彼女の焦点が定まらない目を見れば、それがその母子の三人連れを指しているのでないことは明らかだった。ここにはいない、彼女のよく知っている——そして天吾の知らない——具体的な誰かのことをふかえりは話しているのだ。
「あの人たちって誰のこと?」と天吾は尋ねた。彼の声もいくらか小さくなっていた。
ふかえりは何も言わず、眉のあいだに小さなしわを寄せた。唇は堅く結ばれていた。
「リトル?ピープルのこと?」と天吾は質問した。
やはり返事はない。
「君の言う<���傍点>あの人たち</傍点>は、もし物語が活字になって世間に公表され、話題になったりしたら、そのことで腹を立てるのかな?」
ふかえりはその質問にも答えなかった。目の焦点はやはりどこにも結ばれていない。しばらく待って返事がないことを確認してから、天吾は別の質問をした。
「君の言うセンセイについて教えてくれないかな。どんな人なんだろう」
ふかえりは不思議そうな顔で天吾を見た。この人は何を言っているのだろうという風に。それから言った。「これからセンセイにあう」
「たしかに」と天吾は言った。「たしかにそのとおりだ。どうせこれから会うんだ。直接会って自分で確かめればいい」
国分寺駅で登山のかっこうをした老人のグループが乗り込んできた。全部で十人ばかりで、男女が半分ずつ、年齢は六十代後半から七十代前半のあいだに見えた。それぞれにリュックを背負い帽子をかぶり、遠足に出かける小学生のように賑やかで楽しそうだった。彼らは水筒を腰に付けたり、リュックのポケットに入れたりしていた。年をとったら自分もあんな風に楽しそうになれるのだろうか、と天吾は考えた。それから小さく首を振った。いや、たぶん無理だろう。天吾は老人たちがどこかの山頂で得意そうに水筒から水を飲んでいる光景を想像した。
リトル?ピープルは小さな体のくせにとてもたくさんの水を飲む。そして彼らが好むのは水道の水ではなく、雨水であり、近くの小川を流れている水だった。だから少女は昼間のうちに小川からバケツに水を汲んできて、それをリトル?ピープルに飲ませた。雨が降れば、雨樋の下にバケツを置いて溜めておいた。リトル?ピープルは同じ自然の水でも、小川の水よりは雨水を好んだからだ。彼らはそのような少女の親切なおこないに感謝した。
天吾は、意識をひとつに保っているのがむずかしくなっていることに気づいた。よくない徴候だ。たぶん今日が日曜日であるせいだ。彼の中である種の混乱が始まっていた。感情の平原のどこかで不吉な砂嵐が発生しようとしていた。日曜日には時々そういうことが起こる。
「どうかした」とふかえりが疑問符抜きで尋ねた。彼女には天吾の感じている緊張が察知できるようだ。
「うまくできるだろうか」と天吾は言った。
「なにが」
「僕はうまく話すことができるだろうか?」
「うまくはなすことができる」とふかえりは尋ねた。彼が何を言おうとしているのか、よく理解できないようだった。
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