ところがNHKの正規職員に採用されたあとのことになると、父親の話はなぜか急激に色彩とリアリティーを失なっていった。彼の語る話は細部を欠き、まとまりを欠いてきた。それは彼にとって語るに足りない後日談であるかのようだった。彼はある女性と知り合って結婚し、子供を一人もうける——それがつまりは天吾だ。そして母親は天吾を生んで数ヶ月後に、病を得てあっさり亡くなってしまう。それ以来彼は再婚することもなく、NHKの集金人として勤勉に働きながら、男手ひとつで天吾を育ててきた。そして今に至る。終わり。
彼がどのような経緯で天吾の母親と巡り合い、結婚することになったのか、それがどのような女性であったのか、死因がなんだったのか(彼女の死は天吾の出産に関連しているのだろうか)、彼女の死が比較的安らかなものであったのか、あるいは苦痛に満ちたものであったのか、そういうことになると父親はほとんど何ひとつ語らなかった。天吾が質問をしても、話をはぐらかして答えなかった。多くの場合、不機嫌になって黙り込んだ。母親の写真は一枚も残されていなかった。結婚式の写真もなかった。結婚式を挙げるような余裕はなかったし、写真機も持っていなかった、と父親は説明した。
しかし天吾は父親の話を基本的に信じなかった。父親は事実を隠し、話を作り替えている。母親は、天吾を産んで数ヶ月後に死んだわけではない。彼に残された記憶の中では、母親は彼が一歳半になるまで生きていた。そして天吾の眠っているそばで、父親以外の男と抱き合い、むつみ合っていたのだ。
彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせている。天吾はその隣で寝息をたてて眠っている。しかし同時に天吾は眠っていない。彼は母親の姿を見ている。
それが天吾にとっての母親の記念写真だった。その十秒ばかりの情景は彼の脳裏にはっきりと焼きついている。それは彼が手にしている、母親についてのたったひとつの具体的な情報だった。天吾の意識はそのイメージを通して辛うじて母親に通じている。仮説的なへその緒で結びつけられている。彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。しかし父親は、天吾がそんな光景を鮮明に頭に焼きつけていることを知らない。彼がその情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻{はんすう}し、そこから大事な滋養を得ていることを知らない。父子はそれぞれに深く暗く秘密を抱き合っている。
気持ちよく晴れた日曜日の朝だった。しかし吹く風は冷ややかさを含み、四月の半ばとはいえ、季節が簡単に逆戻りしてしまうことを教えている。天吾は黒い薄手の丸首セーターの上に、学生時代からずっと着ているヘリンボーンのジャケットを着て、ベージュのチノパンツに、茶色のハッシュパピーを履いていた。靴は比較的新しいものだ。それが彼にできるいちばんござつばりした格好だった。
天吾が中央線新宿駅の立川方面行きプラットフォームのいちばん前に着いたとき、ふかえりは既にそこにいた。彼女は一人でベンチに座り、身動きひとつせず、目を細めて宙を見つめていた。どう見ても夏物としか思えないプリント地のコットンのワンピースの上に、分厚い冬物の草色のカーディガンを着て、素足に色あせたグレーのスニーカーを履いていた。この季節としてはいささか不思議な組み合わせだった。ワンピースは薄すぎるし、カーディガンは厚すぎる。しかし彼女がそういうかっこうをしていると、違和感はとくに感じられなかった。そのような<���傍点>そぐわなさ</傍点>によって、彼女は自分なりの世界観を表現しているのかもしれない。そう見えなくもなかった。しかしたぶん何も考えずに、ただでたらめに服を選んでいるだけだろう。
彼女は新聞も読まず、本も読まず、ウォークマンも聴かず、ただ静かにそこに座って、大きな黒い目でじっと前方を眺めていた。何かを見つめているようでもあり、まったく何も見ていないようでもあった。何かを考えているようでもあり、まったく何も考えていないようでもあった。遠くから見ると、特別な素材を使ってリアリスティックにつくられた彫刻のように見えた。
「待った?」と天吾は尋ねた。
ふかえりは天吾の顔を見て、それからほんの数センチ首を横に振った。その黒い目には絹のような鮮やかなつやがあったが、前に会ったときと同じように表情はまるで見受けられなかった。今のところ、彼女は誰ともあまり口をききたくないように見えた。だから天吾も会話を続けようという努力は放棄し、何も言わずベンチの彼女のとなりに腰をおろした。
電車がやってくると、ふかえりは黙って立ち上がった。そして二人はその電車に乗り込んだ。休日の高尾行きの快速には乗客の姿は少なかった。天吾とふかえりは並んで座席に座り、向かい側の窓の外を過ぎていく都会の情景を無言のまま眺めた。ふかえりは相変わらず口をきかなかったので、天吾も沈黙をまもっていた。彼女はこれからやってくるであろう厳しい寒さに備えるように、カーディガンの襟をしっかりとあわせ、正面を向いて唇をまっすぐに結んでいた。
天吾は持ってきた文庫本を取り出して読みかけたが、少し迷ってやめた。彼は文庫本をポケットに戻し、ふかえりにつきあうようなかっこうで、両手を膝の上に置き、ただぼんやり前方に目をやった。考えごとをしようかと思ったが、考えるべきことをひとつとして思いつけなかった。しばらく『空気さなぎ』の書き直しに集中していたせいで、頭がまとまった何かを考えることを拒否しているらしい。頭の芯にもつれた糸のようなかたまりがある。
天吾は風景が窓の外を流れていくのを眺め、レールの立てる単調な音に耳を澄ませていた。中央線はまるで地図に定規で一本の線を引いたように、どこまでもまっすぐ延びている。いや、<���傍点>まるで</傍点>とか<���傍点>ように</傍点>とか断るまでもなく、当時の人々はきっと実際にそうやってこの路線をこしらえたのだろう。関東平野のこのあたりには語るに足る地勢的障害物がひとつもない。だから人が感知できるようなカーブも高低もなく、橋もなければトンネルもないという路線ができあがった。定規が一本あれば事足りる。電車は目的地に向けて一直線にひた走っていくだけだ。
どのあたりからだろう、知らないうちに天吾は眠っていた。振動を感じて目を覚ましたとき、電車はスピードを徐々に緩めて荻窪の駅に停まりかけているところだった。短い眠りだ。ふかえりは前と同じ姿勢のまま正面をじっと見ていた。でも彼女が実際にどんなものを見ているのか、天吾にはわからない。ただその何かに集中しているような雰囲気からすると、まだしばらくは電車を降りるつもりはないらしい。
Читать дальше