「ありがとう。あなたと話せてちょっと楽になった」と彼女は少しあとで言った。何か思い当たるところがあったようだった。
「僕も少し楽になった」と天吾は言った。
「どうして?」
「君と話せたから」
「来週の金曜日に」と彼女は言った。
電話を切ったあとで、天吾は外に出て近所のスーパーマーケットに行き、食料品の買い物をした。紙袋を抱えて部屋に戻り、野菜と魚をひとつひとつラップにくるんで冷蔵庫にしまった。そのあとFM放送の音楽番組を聞きながら夕食の用意をしているときに、電話のベルが鳴った。一日に四度も電話がかかってくるのは、天吾にとってはずいぶん珍しいことだった。そんなことは年に数えるほどしかない。かけてきたのは今度はふかえりだった。
「こんどのニチヨウのこと」と彼女は前置きもなしに言った。
電話の向こうで車のクラクションが続けざまに鳴るのが聞こえた。運転手は何かに対してかなり腹を立てているようだった。おそらく大きな通りに面した公衆電話から電話をかけているのだろう。
「今度の日曜日、つまりあさってに僕は君と会って、それからほかの誰かに会うことになっている」と天吾は彼女の発言に肉付けをした。
「あさの九じ?シンジュクえき?タチカワいきのいちばんまえ」と彼女は言った。三つの事実がそこには並べられている。
「つまり中央線下りホーム、いちばん前の車両で待ち合わせる、ということだね?」
「そう」
「切符はどこまで買えばいい?」
「どこでも」
「適当に切符を買っておいて、着いたところで料金を精算する」と天吾は推測し、補足した。『空気さなぎ』の書き直し作業に似ている。「それで、我々はかなり遠くまで行くのだろうか?」
「いまなにをしてた」とふかえりは天吾の質問を無視して尋ねた。
「夕ご飯を作ってた」
「どんなもの」
「一人だから、たいしたものは作らない。かますの干物を焼いて、大根おろしをする。ねぎとアサリの味噌汁を作って、豆腐と一緒に食べる。きゅうりとわかめの酢の物も作る。あとはご飯と白菜の漬け物。それだけだよ」
「おいしそう」
「そうかな。とりたてておいしいというほどのものじゃない。いつもだいたい似たようなものばかり食べている」と天吾は言った。
ふかえりは無言だった。彼女の場合、長いあいだ無言のままでいることがとくに気にならないようだった。しかし天吾はそうではない。
「そうだ、今日から君の『空気さなぎ』の書き直しを始めたんだ」と天吾は言った。「君からまだ最終的な許可はもらっていないけど、日にちがあまりなくて、もう始めないと間に合わないということだから」
「コマツさんがそうするようにいった」
「そうだよ。小松さんが書き直しを始めるようにと僕に言ったんだ」
「コマツさんとなかがいい」
「そうだね。仲がいいのかもしれない」、小松と仲良くなれる人間なんてたぶんこの世界のどこにもいない。しかしそんなことを言い出すと話が長くなる。
「かきなおしはうまくすすんでいる」
「今のところは。おおむね」
「よかった」とふかえりは言った。どうやらそれは口先だけの表現でもないようだった。書き直し作業が順調に進んでいることを、彼女なりに喜んでいるみたいに聞こえた。ただ限定された感情表現は、その程度まで示唆してはくれなかった。
「気に入ってもらえるといいんだけど」と天吾は言った。
「しんぱいない」とふかえりは間を置かず言った。
「どうしてそう思うの?」と天吾は訊ねた。
ふかえりはそれに対しては返事をしなかった。電話口でただ黙っていた。意図的な種類の沈黙だった。おそらく天吾に何かを考えさせるための沈黙だ。しかしどれだけ知恵を振り絞っても、どうして彼女がそんな強い確信を持てるのか天吾にはさっぱりわからなかった。
天吾は沈黙を破るために言った。「ねえ、ひとつ聞きたいことがあるんだ。君は本当にコミューンみたいなところに住んで、山羊を飼ったことがあるの? そういうものごとの描写がとても真に迫っていた。だからそれが実際に起こったことかどうか、ちょっと知りたかった」
ふかえりは小さく咳払いをした。「ヤギのはなしはしない」
「いいよ」と天吾は言った。「話したくなければ、話さなくてかまわない。ただちょっと訊いてみただけだ。気にしなくていい。作家にとっては作品がすべてだ。余計な説明を加える必要はない。日曜日に会おう。それで、その人に会うにあたって、何か気をつけた方がいいことはあるのかな?」
「よくわからない」
「つまり……、わりにきちんとした格好をしていった方がいいとか、何か手みやげみたいなものを持っていった方がいいとか、そういうこと。相手がいったいどういう人なのか、何もヒントがないから」
ふかえりはまた沈黙した。しかし今度のは意図を持った沈黙ではなかった。天吾の質問の目的が、またそんな発想そのものが、彼女にはただ単純に呑み込めないのだ。その質問は彼女の意識の領域のどこにも着地しなかった。それは意味性の縁を越えて、虚無の中に永遠に吸い込まれてしまったようだった。冥王星のわきをそのまま素通りしていった孤独な惑星探査ロケットみたいに。
「いいよ、べつにたいしたことじゃないから」と天吾はあきらめて言った。ふかえりにそんな質問をすること自体が見当違いだった。まあ、どこかで果物でも買っていけばいい。
「じゃあ、日曜日の九時に」と天吾は言った。
ふかえりは数秒の間を置いてから、何も言わずに電話を切った。「さよなら」もなく「じゃあ、日曜日に」もなかった。ただ電話がぷつんと切れただけだ。
あるいは彼女は天吾に向かってこっくりと肯いてから受話器を置いたのかもしれない。しかし残念ながら大方の場合、ボディーランゲージは電話では本来の効果を発揮しない。天吾は受話器をもとに戻し、二度深呼吸をして頭の回路をより現実的なものに切り替え、それからつつましい夕食の支度を続けた。
土曜日の午後一時過ぎ、青豆は「柳屋敷」を訪れた。その家には年を経た柳の巨木が何本も繁り、それが石塀の上から頭を出し、風が吹くと行き場を失った魂の群れのように音もなく揺れた。だから近所の人々は昔から当然のように、その古い洋風の屋敷を「柳屋敷」と呼んでいた。麻布の急な坂を登り切ったところにそれはある。柳の枝のてっぺんに身の軽い鳥たちがとまっているのが見える。屋根の日だまりで、大きな猫が目を細めてひなたぼっこをしている。あたりの通りは狭く、曲がりくねっており、車もほとんど通らない。高い樹木が多く、昼間でも薄暗い印象があった。この一角に足を踏み入れると、時間の歩みが少しばかり遅くなったような気さえする。近所には大使館がいくつかあるが、人の出入りは多くない。普段は<���傍点>しん</傍点>としているが、夏になると事情は一変し、蝉の声で耳が痛くなる。
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