お祈りが終わると、目を開けて鏡の中の自分の姿を見た。大丈夫。どこから見ても隙のない、いかにも有能そうなビジネス?ウーマンだ。背筋はまっすぐ伸び、口元も引き締まっている。大きなずんぐりとしたショルダーバッグだけがいささか場違いだ。たぶん薄手のアタッシェケースでも持つべきなのだろう。しかしそのぶんかえって実務的に見える。念には念を入れて、ショルダーバッグの中の品物をもう一度点検した。問題はない。すべてあるべき場所に収まっている。なんでも手探りで取り出せるようになっている。
あとはただ決められたことを実行するだけだ。揺らぎのない信念と無慈悲さを持ち、まっすぐことにあたらなくてはならない。青豆はそれから、ブラウスのいちばん上のボタンをはずし、身をかがめたときに胸の谷間が見えやすいようにする。もう少し胸が大きいと効果的なのにな、と彼女は残念に思う。
誰に見とがめられることもなくエレベーターで四階に上がり、廊下を歩いてすぐに四二六号室のドアを見つける。ショルダーバッグの中から用意しておいた紙ばさみをとりだし、それを胸に抱え、部屋のドアをノックする。軽く簡潔にノックする。しばらく待つ。それからもう一度ノックする。ほんの少しだけより強く、より硬く。中からもぞもぞと声が聞こえ、ドアが小さく開く。男が顔をのぞかせる。年齢は四十歳前後。マリン?ブルーのワイシャツに、グレーのフラノのスラックスというかっこうだ。ビジネスマンがとりあえずスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずしたという雰囲気が漂っている。いかにも不機嫌そうな赤い目をしている。おそらく寝不足なのだろう。ビジネス?スーツを着た青豆の姿を見て、いくらか意外な顔をした。たぶん室内の冷蔵庫の補充をするメイドでも予想していたのだろう。
「おくつろぎのところを失礼いたします。ホテルのマネージメントの伊藤と申しますが、空調設備に問題が生じまして、点検に参りました。五分ばかりお部屋にお邪魔してよろしいでしょうか」と青豆はにこやかに微笑みながら、てきぱきとした口調で言った。
男は目を不快そうにすぼめた。「大事な急ぎの仕事をしているところなんだ。一時間くらいで部屋を出るから、そのときまで待ってもらえないかな? 今のところこの部屋の空調にはとくに問題もないみたいだし」
「申し訳ございませんが、漏電に関係する緊急の安全確認なので、できれば早急に終えてしまいたいのです。このようにお部屋をひとつひとつ回っております。ご協力いただければ、五分もかからずに終わります」
「しょうがないな」と男は言って舌打ちをした。「邪魔されずに仕事をするために、わざわざ部屋を借りたのに」
彼は机の上の書類を指さした。コンピュータからプリントアウトされた細かい図表が積み上げられている。今夜の会議のために必要な資料を準備しているのだろう。計算器があり、メモ用紙にはたくさんの数字が並べられている。
この男が石油関連の企業に勤めていることを青豆は知っている。中東諸国での設備投資に関するスペシャリストなのだ。与えられた情報によれば、その領域では有能だということだった。物腰でそれはわかる。育ちが良く、高い収入を得て、ジャガーの新車に乗っている。甘やかされた少年時代を送り、外国に留学し、英語とフランス語をよく話し、何ごとによらず自信たっぷりだ。そしてどのようなことであれ、他人から何かを要求されることに我慢ならないタイプだ。批判にも我慢ならない。とくにそれが女性から向けられた場合には。その一方で、自分が他人に何かを要求することはちっとも気にならない。妻をゴルフクラブで殴って肋骨を数本折ることにもさして痛痒を感じない。この世界は自分が中心になって動いていると思っている。自分がいなければ地球はうまく動かないだろうと考えている。誰かに自分の行動を邪魔されたり否定されたりすると腹を立てる。それも激しく腹を立てる。サーモスタットが飛んでしまうくらい。
「ご迷惑をおかけします」と青豆は営業用の明るい微笑みを浮かべたまま言った。そして既成事実を作るように、身体を半分部屋の中に押し込み、ドアを背中で押さえながら紙ばさみを広げ、ボールペンでそこに何かを書き込んだ。「お客様は、えー、深山{みやま}さまでいらっしゃいますね」、彼女は尋ねた。写真で何度も見て顔は覚えているが、人違いでないことを確認しておいて損はない。間違えたら取り返しがつかない。
「そうだよ、深山だ」とぞんざいな口調で男は言った。それからあきらめたようにため息をついた。わかったよ、なんでも勝手にすればいい、というように。そしてボールペン片手に机に向かい、読みかけていた書類をもう一度手に取った。メイクされたままのダブルベッドの上にはスーツの上着と、ストライプのネクタイが乱暴に放り出されている。どちらもいかにも高価そうなものだ。青豆はショルダーバッグを肩にかけたまま、まっすぐクローゼットに向かった。空調のスイッチパネルがそこにあることは前もって聞かされている。クローゼットの中にはソフトな素材で作られたトレンチコートと、濃いグレーのカシミアのマフラーがかけてあった。荷物は革製の書類かばんひとつきりだ。着替えも化粧バッグもない。たぶんここに逗留するつもりはないのだろう。机の上にはルームサービスでとったコーヒーポットがある。三十秒ばかりパネルを点検するふりをしてから、彼女は深山に声をかけた。
「どうもご協力をありがとうございました、深山さま。この部屋の設備には何も問題はありません」
「だからこの部屋の空調には問題ないって、はじめから言ってるじゃないか」、深山はこちらを振り向きもせず、横柄な声で言った。
「あの、深山さま」、青豆はおずおずと言った。「失礼ですが、首筋に何かがついているようです」
「首筋に?」、深山はそう言って、手を自分の首の後ろにあてた。そして少しこすってから、その手のひらを不審そうに眺めた。「何もついてないみたいだけれど」
「ちょっと失礼させていただきます」と青豆は言って机に近寄った。「近くで拝見してよろしいですか」
「ああ、いいけど」と深山はわけがわからないという顔をして言った。「何かって、どんなもの?」
「塗料のようなものです。明るい緑色をしています」
「塗料?」
「よくわかりません。色合いはどう見ても塗料のようですね。失礼ですが、手を触れてもかまいませんか。とれるかもしれませんから」
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