「寝てたか」もなければ「夜遅く悪いな」もない。たいしたものだ。いつもつい感心してしまう。
天吾は暗闇の中で顔をしかめたまま黙っていた。夜中に叩き起こされると、しばらく頭がうまく働かない。
「おい、聞いてるか?」
「聞いてますよ」
「電話でだけどいちおう話したよ。まあほとんどこちらが一方的に話をして、向こうはそれを聞いていただけだから、一般的な常識からすれば、とても会話とは呼べそうにない代物だったけどね。なにしろ無口な子なんだ。話し方も一風変わっている。実際に聞けばわかると思うけど。で、とにかく、俺の計画みたいなものをざらっと説明した。第三者の手を借りて『空気さなぎ』を書き直し、より完成されたかたちにして、新人賞を狙うというのはどうだろう、みたいなことだよ。まあ電話だからこちらとしても、おおまかなことしか言えない。具体的な部分は会って話すとして、そういうことに興味がありやなしやと尋ねてみた。いくぶん遠回しに。あまり率直に話すと、内容が内容だけに、俺も立場的にまずくなるかもしれないからね」
「それで?」
「返事はなし」
「返事がない?」
小松はそこで効果的に間を置いた。煙草をくわえ、マッチで火をつける。電話を通して音を聞いているだけで、その光景がありありと目の前に浮かんだ。彼はライターを使わない。
「ふかえりはね、まず君に会ってみたいって言うんだ」と小松は煙を吐きながら言った。「話に興味があるともないとも言わない。やってもいいとも、そんなことやりたくないとも言わない。とりあえず君と会って、面と向かって話をするのが、いちばん重要なことらしい。会ってから、どうするか返事をするそうだ。責任重大だと思わないか?」
「それで?」
「明日の夕方は空いてるか?」
予備校の講義は朝早く始まって、午後の四時に終わる。幸か不幸か、そのあとは何も予定は入っていない。「空いてますよ」と天吾は言った。
「夕方の六時に、新宿の中村屋に行ってくれ。俺の名前で奥の方のわりに静かなテーブルを予約しておく。うちの会社のつけがきくから、なんでも好きなものを飲み食いしていい。そして二人でじつくりと話し合ってくれ」
「というと、小松さんは来ないんですか?」
「天吾くんと二人だけで話をしたいというのが、ふかえりちゃんの持ち出した条件だ。今のところ俺には会う必要もないそうだ」
天吾は黙っていた。
「というわけだ」と小松は明るい声で言った。「うまくやってくれ、天吾くん。君は図体はでかいが、けっこう人に好感を与える。それになにしろ予備校の先生をしているんだから、早熟な女子高校生とも話し慣れているだろう。俺よりは適役だ。にこやかに説得して、信頼感を与えればいいんだ。朗報を待っているよ」
「ちょっと待って下さい。だってこれはそもそも小松さんの持ってきた話じゃないですか。僕だってそれにまだ返事をしていません。このあいだも言ったように、ずいぶん危なっかしい計画だし、そんなに簡単にものごとが運ぶわけはないだろうと僕は踏んでいます。社会的な問題にもなりかねません。引き受けるか引き受けないか、僕自身がまだ態度を決めてないのに、見ず知らずの女の子を説得できるわけがないでしょう」
小松はしばらく電話口で沈黙していた。それから言った。「なあ天吾くん、この話はもうしつかりと動き出しているんだ。今さら電車を止めて降りるわけにはいかない。俺の腹は決まっている。君の腹だって半分以上決まっているはずだ。俺と天吾くんとはいわば一蓮托生{いちれんたくしょう}なんだ」
天吾は首を振った。一蓮托生? やれやれ、いったいいつからそんな大層なことになってしまったんだ。
「でもこのあいだ小松さんは、ゆっくり時間をかけて考えればいいって言ったじゃないですか」
「あれから五日たった。それでゆっくり考えてどうだった?」
天吾は言葉に窮した。「結論はまだ出ません」と彼は正直に言った。
「じゃあ、とにかくふかえりって子と会って話してみればいいじゃないか。判断はそのあとですればいい」
天吾は指先でこめかみを強く押さえた。頭がまだうまく働かない。「わかりました。とにかくふかえりって子には会ってみましょう。明日の六時に新宿の中村屋で。だいたいの事情も僕の口から説明しましょう。でもそれ以上のことは何も約束できませんよ。説明はできても、説得みたいなことはとてもできませんからね」
「それでいい、もちろん」
「それで、彼女は僕のことをどの程度知っているんですか?」
「おおよその説明はしておいた。年齢は二十九だか三十だかそんなところで独身、代々木の予備校で数学の講師をしている。図体はでかいが、悪い人間じゃない。若い女の子を取って食ったりはしない。生活はつつましく、心優しい目をしている。そして君の作品のことをとても気に入っている。だいたいそれくらいのことだけどね」
天吾はため息をついた。何かを考えようとすると、現実がそばに寄ったり遠のいたりした。
「ねえ、小松さん、もうベッドに戻っていいですか? そろそろ一時半になるし、僕としても夜が明ける前に、少しでも眠っておきたい。明日は講義が朝から三コマあるんです」
「いいよ。おやすみ」と小松は言った。「良い夢を見てくれ」。そしてそのままあっさり電話を切った。
天吾は手に持った受話器をしばらく眺めてから、もとに戻した。眠れるものならすぐにでも眠りたかった。良い夢が見られるものなら見たかった。でもこんな時刻に無理に起こされて、面倒な話を持ち込まれて、簡単に眠れないことはわかっていた。酒を飲んで眠ってしまうという手もあった。しかし酒を飲みたいという気分でもなかった。結局水をグラスに一杯飲み、ベッドに戻って明かりをつけ、本を読み始めた。眠くなるまで本を読むつもりだったが、眠りについたのは夜明け前だった。
予備校で講義を三コマ終え、電車で新宿に向かった。紀伊国屋書店で本を何冊か買い、それから中村屋に行った。入り口で小松の名前を告げると、奥の静かなテーブルに通された。ふかえりはまだ来ていない。連れが来るまで待っている、と天吾はウェイターに言った。待たれているあいだ何かお飲みになりますかとウェイターが尋ね、何も要らないと天吾は言った。ウェイターは水とメニューを置いて去っていった。天吾は買ったばかりの本を広げ、読み始めた。呪術についての本だ。日本社会の中で呪いがどのような機能を果たしてきたかを論じている。呪いは古代のコミュニティーの中で重要な役割を演じてきた。社会システムの不備や矛盾を埋め、補完することが呪いの役目だった。なかなか楽しそうな時代だ。
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