ふかえりはまた小さく肩をすぼめた。「だいじそうにセキブンのことをはなしていた」
「そうかな」と天吾は言った。そんなことを誰かに言われたのは初めてだ。
「だいじなひとのはなしをするみたいだった」と少女は言った。
「数列の講義をするときには、もっと情熱的になれるかもしれない」と天吾は言った。「高校の数学教科の中では、数列が個人的に好きだ」
「スウレツがすき」とふかえりはまた疑問符抜きで尋ねた。
「僕にとってのバッハの平均律みたいなものなんだ。飽きるということがない。常に新しい発見がある」
「ヘイキンリツはしっている」
「バッハは好き?」
ふかえりは肯いた。「センセイがいつもきいている」
「先生?」と天吾は言った。「それは君の学校の先生?」
ふかえりは答えなかった。それについて話をするのはまだ早すぎる、という表情を顔に浮かべて天吾を見ていた。
それから彼女は思い出したようにコートを脱いだ。虫が脱皮するときのようにもぞもぞと体を動かしてそこから抜け出し、畳みもせず隣の椅子の上に置いた。コートの下は淡いグリーンの薄手の丸首セーターに、白いジーンズというかっこうだった。装身具はつけていない。化粧もしていない。それでも彼女は目立った。ほっそりとした体つきだったが、そのバランスからすれば胸の大きさはいやでも人目を惹いた。かたちもとても美しい。天吾はそちらに目を向けないように注意しなくてはならなかった。しかしそう思いながら、つい胸に視線がいってしまう。大きな渦巻きの中心につい目がいってしまうのと同じように。
白ワインのグラスが運ばれてきた。ふかえりはそれを一口飲んだ。そして考え込むようにグラスを眺めてから、テーブルに置いた。天吾はしるしだけ口をつけた。これから大事な話をしなくてはならない。
ふかえりはまっすぐな黒い髪に手をやり、少しのあいだ指ではさんで硫{す}いていた。素敵な仕草だった。素敵な指だった。細い指の一本一本がそれぞれの意思と方針を持っているみたいに見えた。そこには何かしら呪術的なものさえ感じられた。
「数学のどんなところが好きか?」、天吾は彼女の指と胸から注意をそらせるために、もう一度声に出して自分に問いかけた。
「数学というのは水の流れのようなものなんだ」と天吾は言った。「こむずかしい理論はもちろんいっぱいあるけど、基本の理屈はとてもシンプルなものだ。水が高いところから低いところに向かって最短距離で流れるのと同じで、数字の流れもひとつしかない。じっと見ていると、その道筋は自ずから見えてくる。君はただじっと見ているだけでいいんだ。何もしなくていい。意識を集中して目をこらしていれば、向こうから全部明らかにしてくれる。そんなに親切に僕を扱ってくれるのは、この広い世の中に数学のほかにはない」
ふかえりはそれについて、しばらく考えていた。
「どうしてショウセツをかく」と彼女はアクセントを欠いた声で尋ねた。
天吾は彼女のその質問をより長いセンテンスに転換した。「数学がそんなに楽しければ、なにも苦労して小説を書く必要なんてないじゃないか。ずっと数学だけやっていればいいじゃないか。言いたいのはそういうこと?」
ふかえりは肯いた。
「そうだな。実際の人生は数学とは違う。そこではものごとは最短距離をとって流れるとは限らない。数学は僕にとって、なんて言えばいいのかな、あまりにも自然すぎるんだ。それは僕にとっては美しい風景みたいなものだ。ただ<���傍点>そこにある</傍点>ものなんだ。何かに置き換える必要すらない。だから数学の中にいると、自分がどんどん透明になっていくような気がすることがある。ときどきそれが怖くなる」
ふかえりは視線をそらすことなく、天吾の目をまっすぐに見ていた。窓ガラスに顔をつけて空き家の中をのぞくみたいに。
天吾は言った。「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世界に間違いなく存在していることを確かめる。それは数学の世界にいるときとはずいぶん違う作業だ」
「ソンザイしていることをたしかめる」とふかえりは言った。
「まだそれがうまくできているとは言えないけど」と天吾は言った。
ふかえりは天吾の説明に納得したようには見えなかったが、それ以上何も言わなかった。ワイングラスを口元に運んだだけだ。そしてまるでストローで吸うようにワインを小さく音もなくすすった。
「僕に言わせれば、君だって結果的にはそれと同じことをしている。君が目にした風景を、君の言葉に置き換えて再構成している。そして自分という人間の存在位置をたしかめている」と天吾は言った。
ふかえりはワイングラスを持った手を止めて、それについてしばらく考えた。しかしやはり意見は言わなかった。
「そしてそのプロセスをかたちにして残した。作品として」と天吾は言った。「もしその作品が多くの人々の同意と共感を喚起すれば、それは客観的価値を持つ文学作品になる」
ふかえりはきっぱりと首を振った。「かたちにはキョウミはない」
「かたちには興味がない」と天吾は反復した。
「かたちにイミはない」
「じゃあどうしてあの話を書いて、新人賞に応募したの?」
ふかえりはワイングラスをテーブルに置いた。「わたしはしていない」
天吾は気持ちを落ち着けるために、グラスを手にとって水を一口飲んだ。「つまり、君は新人賞に応募しなかったということ?」
ふかえりは肯いた。「わたしはおくっていない」
「じゃあいったい誰が、君の書いたものを、新人賞の応募原稿として出版社に送ったんだろう?」
ふかえりは小さく肩をすくめた。そして十五秒ばかり沈黙した。それから言った、「だれでも」
「誰でも」と天吾は繰り返した。そしてすぼめた口から息をゆっくり吐いた。やれやれ、ものごとはそんなにすんなりとは進まない。思った通りだ。
天吾はこれまでに何度か、予備校で教えた女生徒と個人的につきあったことがあった。といっても、それは彼女たちが予備校を出て、大学に入ったあとのことだ。彼女たちの方から連絡をしてきて、会いたいと言われて、会って話をしたり、どこかに一緒に出かけたりした。彼女たちが天吾のいったいどこに惹かれたのか、天吾自身にはわからない。でもいずれにせよ彼は独身だったし、相手はもう彼の生徒ではない。デートに誘われて断る理由もなかった。
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