それから小松の声はまた柔らかくなった。「しかしいずれにせよ、ふかえりは君が原稿に手を加えることを了承した。なんと言ってもそれがいちばんの重大事だ。あとのことはなんとでもなる」
天吾は受話器を左手に持ち替えた。そして右手の人差し指でこめかみをゆっくりと押した。
「ねえ、小松さん、僕はどうも不安なんです。はっきりした根拠があって言うんじゃないけど、自分が今、何かしら<���傍点>普通じゃないこと</傍点>に巻き込まれつつあるような気がしてならないんです。ふかえりって女の子と向かい合っているときには、とくに感じなかったんだけど、彼女と別れて一人になってから、そういう気持ちがだんだん強くなってきました。予感と言えばいいのか、虫の知らせなのか、でもとにかくここには何かしら奇妙なものがあります。普通ではないものです。頭でじゃなくて、身体でそう感じるんです」
「ふかえりに会って、それでそんな風に感じたのか?」
「かもしれない。ふかえりはたぶん本物だと思います。もちろん僕の直感に過ぎませんが」
「本物の才能があるってことか?」
「才能のことまではわかりません。会ったばかりだから」と天吾は言った。「ただ彼女は僕らの見ていないものを、実際に見ているのかもしれない。何かしら特殊なものを持っているのかもしれない。そのあたりがどうもひっかかるんです」
「頭がおかしいということか?」
「エキセントリックなところはあるけれど、頭はべつにおかしくないと思いますよ。話の筋はいちおう通っています」と天吾は言った。そして少し間を置いた。「ただ何かがひっかかるだけです」
「いずれにせよ彼女は、君という人間に興味を持った」と小松は言った。
天吾は適切な言葉を探したが、そんなものはどこにも見つからなかった。「そこまではわかりません」と彼は答えた。
「彼女は君に会い、少なくとも君には『空気さなぎ』を書き直す資格があると思った。つまり君のことを気に入ったということだ。実に上出来だよ、天吾くん。先のことは俺にもわからん。もちろんリスクはある。しかしリスクは人生のスパイスだ。今からすぐにでも『空気さなぎ』の改稿にとりかかってくれ。時間はない。書き直した原稿をなるたけ早く、応募原稿の山の中に戻さなくちゃならない。オリジナルと取り替えるんだよ。十日あれば書き上げられるか?」
天吾はため息をついた。「厳しいですね」
「なにも最終稿である必要はないんだよ。先の段階でまた少しは手を入れることができる。とりあえずのかっこうをつけてくれればいい」
天吾は頭の中で作業のおおまかな見積もりをした。「それなら十日あればなんとかなるかもしれません。大変なことには変わりありませんが」
「やってくれ」と小松は明るい声で言った。「彼女の目で世界を眺めるんだ。君が仲介になり、ふかえりの世界とこの現実の世界を結ぶ。君にはそれができる、天吾くん。俺には——」
そこで十円玉が切れた。
第5章 青豆
専門的な技能と訓練が必要とされる職業
仕事を済ませたあと、青豆はしばらく歩いてからタクシーを拾い、赤坂のホテルに行った。帰宅し眠りにつく前に、アルコールで神経の高ぶりをほぐしておく必要がある。なにしろついさっき一人の男を<���傍点>あちら側</傍点>に送り込んできたのだ。殺されても文句の言えないネズミ野郎とはいえ、やはり人は人だ。彼女の手には生命が消滅していくときの感触がまだ残っている。最後の息が吐かれ、魂が身体を離れていく。青豆は何度かそのホテルのバーに行ったことがあった。高層ビルの最上階、見晴らしが良く、カウンターの居心地がいい。
バーに入ったのは七時少し過ぎだった。ピアノとギターの若いデュオが『スイート?ロレイン』を演奏していた。ナット?キング?コールの古いレコードのコピーだが、悪くない。彼女はいつものようにカウンターに座り、ジン?トニックとピスタチオの皿を注文した。バーはまだ混み合ってはいない。夜景を見ながらカクテルを飲んでいる若いカップル、商談をしているらしいスーツ姿の四人組、マティー二のグラスを手にした外国人の中年の夫婦。彼女は時間をかけてジン?トニックを飲んだ。あまり早く酔ってしまいたくない。夜はまだ長い。
ショルダーバッグから本を出して読んだ。一九三〇年代の満州鉄道についての本だ。満州鉄道(南満州鉄道株式会社)は日露戦争が終結した翌年、ロシアから鉄道線路とその権益を譲渡されるかたちで誕生し、急速にその規模を拡大していった。大日本帝国の中国侵略の尖兵となり、一九四五年にソビエト軍によって解体された。一九四一年に独ソ戦が開始されるまで、この鉄道とシベリア鉄道を乗り継いで、下関からパリまで十三日間で行くことができた。
ビジネス?スーツを着て、大きなショルダーバッグを隣りに置き、満州鉄道についての本(ハードカバー)を熱心に読んでいれば、ホテルのバーで若い女が一人で酒を飲んでいても、客選びをしている高級娼婦と間違えられることはあるまい、と青豆は思う。しかし本物の高級娼婦が一般的にどんなかっこうをしているのか、青豆にもよくわからない。もし彼女が仮に裕福なビジネスマンを相手にする娼婦であったなら、相手を緊張させないためにも、バーから追い出されないためにも、たぶん娼婦には見えないように努めるだろう。たとえばジュンコ?シマダのビジネス?スーツを着て、白いブラウスを着て、化粧は控えめにして、実務的な大振りのショルダーバッグを持って、満州鉄道についての本を開いているとか。それに考えてみれば彼女が今やっているのは、客待ちの娼婦と実質的にさして変わりないことなのだ。
時間が経過し、客が徐々に増えてきた。気がつくとあたりはざわざわという話し声で満ちていた。しかし彼女の求めるタイプの客はなかなか姿を見せなかった。青豆はジン?トニックのお代わりをし、スティック野菜を注文し(彼女はまだ夕食をとっていなかった)、本を読み続けた。やがて一人の男がやってきてカウンター席に座った。連れはいない。ほどよく日焼けして、上品な仕立てのブルーグレーのスーツを着ている。ネクタイの好みも悪くない。派手すぎず、地味すぎない。年齢はおそらく五十前後だろう。髪がかなり薄くなっていた。眼鏡はかけていない。東京に出張してきて、仕事の案件を片づけ、ベッドに入る前に一杯やりたくなったのだろう。青豆と同じだ。適度のアルコールを体内に入れて、緊張した神経をほぐす。
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