「ああ」と言って、深山は前にかがみこんで、首筋を青豆に向けた。ヘアカットをしたばかりらしく、首筋に髪はかかっていない。青豆は息を吸い込み、呼吸を止め、意識を集中して<���傍点>その部分</傍点>を素早く探り当てた。そしてしるしをつけるように指先でそこを軽く押さえた。目を閉じて、その感触に間違いがないことを確かめた。そう、ここでいい。本来であればもっとゆっくり時間をかけて念押ししたいところだが、そこまでの余裕はない。与えられた条件の中でベストを尽くす。
「申し訳ありませんが、少しそのままの姿勢でじっとしていていただけますか。バッグからペンライトを出します。この部屋の照明ではよく見えないもので」
「なんだって塗料なんかが、そんなところにつくんだ」と深山は言った。
「わかりません。今すぐに調べます」
青豆は男の首筋の一点に指をそっとあてたまま、ショルダーバッグからプラスチックのハードケースを取り、蓋を開けて薄い布にくるまれたものを出した。片手で器用にその布をほどくと、中から出てきたのは小振りなアイスピックに似たものだった。全長は十センチほど。柄{つか}の部分は小さく引き締まった木製になっている。でもそれはアイスピックではない。ただアイスピックに似たかたちをとっているだけだ。氷を砕くためのものではない。彼女は自分でそれを考案し、製作した。先端はまるで縫い針のように鋭く尖っている。その鋭い先端は折れることがないように、小さなコルク片に突き刺してある。特別に加工して綿のように柔らかくしたコルクだ。彼女は爪先で注意深くそのコルクを取り、ポケットに入れる。そして剥き出しになった針先を深山の首筋の<���傍点>その部分</傍点>にあてる。さあ落ち着いて、ここが肝心なんだから、と青豆は自分に言い聞かせる。十分の一ミリの誤差も許されない。もしほんの少しでもずれたら、すべての努力が水泡に帰してしまうことになる。何よりも集中力が要求される。
「まだ時間がかかるのか? いつまでこんなことをやってるんだ」と男はじれたように言った。
「すみません。すぐに終わります」と青豆は言った。
大丈夫よ、あっという間に終わるから、と彼女は心の中でその男に話しかけた。あとちょっとだけ待ってね。そうしたらあとはもう何も考えなくていいんだから。石油精製システムについても、重油市場の動向についても、投資グループへの四半期報告についても、バーレーンまでのフライトの予約についても、役人への袖の下やら、愛人へのプレゼントやらについても、もう何ひとつ考えなくていいのよ。そういうことをあれこれ考え続けるのもけっこう大変だったんでしょう? だから悪いけど、ちょっとだけ待ってちょうだい。私はこうして意識を集中して真剣にお仕事をしているんだから、邪魔をしないでね。お願い。
いったん位置を定め、心を決めると、彼女は右手のたなごころを空中に浮かべ、息を止め、わずかに間を置いてから、それを<���傍点>すとん</傍点>と下に落とした。木製の柄の部分に向けて。それほど強くではない。力を入れすぎると針が皮膚の下で折れてしまう。針先をあとに残していくわけにはいかない。軽く、慈しむように、適正な角度で、適正な強さで、たなごころを下に落とす。重力に逆らわずに、<���傍点>すとん</傍点>と。そして細い針の先が<���傍点>その部分</傍点>に、あくまで自然に吸い込まれるようにする。深く、滑らかに、そして致死的に。大切なのは角度と力の入れ方なのだ——いや、むしろ力の抜き方だ。それにさえ留意すれば、あとは豆腐に針を刺すみたいに単純なことだ。針の先端が肉を貫き、脳の下部にある特定の部位を突き、蠟燭{ろうそく}を吹き消すように心臓の動きを止める。すべてはほんの一瞬のうちに終わってしまう。あっけないくらい。それは青豆にしかできないことだった。そんな微妙なポイントを手さぐりで探しあてることは他の誰にもできない。でも彼女にはできる。彼女の指先にはそういう特別な直感が具わっている。
男がはっと息を呑む音が聞こえた。全身の筋肉がぴくりと収縮した。その感触を確かめてから、彼女はすばやく針を抜いた。そしてすかさず、ポケットに用意しておいた小さなガーゼで傷口を押さえた。出血をふせぐためだ。とても細い先端だし、それが刺さっていたのはほんの数秒のことだ。出血があったとしてもごくわずかなものだ。それでも念には念を入れなくてはならない。血の痕跡を残してはならない。一滴の血が命取りになる。用心深さが青豆の身上だった。
いったんこわばった深山の身体から、時間をかけて徐々に力が抜けていった。バスケットボールから空気が抜けるときのように。彼女は男の首筋の一点を人さし指で押さえたまま、彼の身体を机にうつぶせにした。その顔は書類を枕にして、横向きに机に伏せられた。目は驚いたような表情を浮かべたまま開いている。何かとんでもなく不思議なものを最後に目撃でもしたみたいに。そこには怯えはない。苦痛もない。ただの純粋な驚きがあるだけだ。自分の身に何か普通ではないことが起こった。しかし何が起こったのか、理解できていない。それが痛みなのか、痒みなのか、快感なのか、あるいは何かの啓示なのか、それさえわかっていない。世界にはいろんな死に方があるが、おそらくこれほど楽な死に方はあるまい。
あなたにはたぶん楽すぎる死に方よね、青豆はそう思って顔をしかめた。あまりにも簡単すぎる。私はたぶん五番アイアンを使ってあなたの肋骨を二三本折って、痛みをじゅうぶんに与え、そのあとで慈悲の死を与えてやるべきだったのでしょうね。そういう惨めな死に方がふさわしいネズミ野郎なんだから。それが実際にあなたが奥さんに対してやったことなんだから。でも残念ながら、私にはそこまでの選択の自由はない。この男を迅速に人知れず、しかし確実にあちらの世界に送り込むことが、与えられた使命だ。そして私は今その使命を果たした。この男はさっきまではちゃんと生きていた。でも今は死んでいる。本人も気がつかないまま、生と死を隔てる敷居をまたいでしまったのだ。
青豆はきっちり五分間、ガーゼを傷口にあてていた。指のあとが残らない程度の強さで、しんぼう強く。そのあいだ彼女は腕時計の秒針から目を離さなかった。長い五分間だ。永遠に続くように感じられる五分間。たった今誰かがドアを開けて部屋に入ってきたら、そして彼女が細身の凶器を片手に、男の首筋を指で押さえているところを目にしたら、それで一巻の終わりだ。言い逃れるすべはない。ボーイがコーヒーポットを下げに来るかもしれない。今にもドアがノックされるかもしれない。しかしそれは省くことのできない大事な五分間だった。彼女は神経を落ち着けるために静かに深く呼吸をする。あわててはいけない。冷静さを失ってはならない。いつものクールな青豆さんでいなくてはならない。
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