ストッキングはかかとのところが両方とも破れていた。誰にも見られていないことを確かめてから、ハイヒールを脱ぎ、スカートをめくり上げてストッキングを下ろし、両脚からむしり取り、また靴を履いた。穴のあいたストッキングはバッグにしまった。それで気持ちが少し落ち着いた。青豆は注意深く視線を配りながら、その資材置き場を歩いてまわった。小学校の教室くらいの広さだ。すぐに一周できる。出入り口はやはりひとつしかない。鍵のかかったフェンスの扉だけだ。まわりを囲んでいる金属の板塀の材質は薄かったが、どれもしっかりボルトで固定されている。工具がなければボルトははずせそうにない。お手上げだ。
彼女はプラスチックの屋根の下に置いてある段ボール箱を調べてみた。そしてそれが寝床のようなかたちになっていることに気づいた。すり切れた毛布も何枚か丸めてあった。それほど古いものではない。たぶん浮浪者がここに寝泊まりしているのだろう。だから雑誌や、飲み物のペットボトルがあたりに散らばっているのだ。間違いない。青豆は頭を働かせた。彼らがここで寝泊まりしているからには、どこかに出入りできる抜け穴があるはずだ。彼らは人目につかず雨風のしのげる場所を見つけだす技術に長{た}けている。そして彼らは自分たちだけの秘密の通路を、獣道{けものみち}のようにこっそりと確保している。
青豆は金属板の塀をひとつひとつ念入りに点検していった。手で押して、揺らぎがないか確かめてみた。案の定、何かの加減でボルトがはずれたらしく、金属板がぐらぐらしている箇所がひとつ見つかった。彼女はそれをいろんな方向に動かしてみた。ちょっと角度を変えて軽く内側にひっぱると、人がひとりくぐり抜けられる程度のスペースができた。その浮浪者はおそらく、暗くなるとそこから中に入ってきて、屋根の下で心おきなく眠るのだろう。この中にいるところをみつかったりすると面倒なことになるから、明るいうちは外で食糧を確保したり、空き瓶を集めて小銭を稼いだりしているのに違いない。青豆はその夜間の無名の住人に感謝した。大都会の裏側を、無名のままひっそり移動しなくてはならないという点では、青豆も彼らの仲間である。
青豆は身を屈めて、その狭い隙間を抜けた。高価なスーツを尖ったところにひっかけて破いたりしないように、細心の注意を払った。それはお気に入りのスーツであるというだけではなく、彼女の所有する唯一のスーツだったからだ。普段はスーツなんか着ない。ハイヒールを履くこともない。しかし<���傍点>この仕事</傍点>のためには、ときとしてあらたまった身なりをしなくてはならなかった。大事なスーツを駄目にするわけにはいかない。
幸いなことに、塀の外にも人影はなかった。青豆は服装を今一度点検し、表情を平静に戻してから、信号のあるところまで歩き、二四六号線をわたり、目についたドラッグストアに入って新しいストッキングを買った。女店員に頼んで奥のスペースを使わせてもらい、ストッキングをはいた。それで気分はかなりよくなった。胃のあたりにわずかに残っていた船酔いに似た不快感も、今ではすっかり消え失せていた。彼女は店員に礼を言って店を出た。
たぶん首都高速が事故で渋滞しているという情報が広まったせいだろう、それと並行して走る国道二四六号線の交通は、いつも以上に混み合っていた。だから青豆はタクシーに乗るのをあきらめて、近くの駅から東急新玉川線に乗ることにした。その方が間違いない。もうタクシーで渋滞に巻き込まれるのはごめんだ。
三軒茶屋の駅に向かう途中で一人の警官とすれ違った。若い長身の警官で、足早にどこかに向かって歩いていくところだった。彼女は一瞬緊張したが、警官は急いでいるらしく、まっすぐ前を向いて、青豆に視線を向けることすらしなかった。すれ違う直前に、彼女はその警官の服装がいつもと違うことに気づいた。見慣れた警官の制服ではない。同じ濃紺の上着だが、かたちが微妙に違う。もっとカジュアルな作りになっている。前ほどぴたりとしていない。材質もより柔らかいものにかわっている。襟が小さく、紺色もいくぶん淡くなっている。それから拳銃の型が違う。彼が腰につけているのは大型オートマチックだった。日本の警官がふつう支給されているのは回転式の拳銃だ。銃器犯罪がきわめて少ない日本で、警官が銃撃戦に巻き込まれるような機会はほとんどないから、旧式の六連発リボルバーでとくに不足はない。リボルバーの方が構…造が単純で、安価で故障も少ないし、手入れも簡単だ。しかしこの警官はなぜか、セミオートマチックで発射できる最新型の拳銃を携行していた。九ミリの弾丸が十六発くらい装填できるやつだ。たぶんグロックかベレッタ。いったい何が起こったのだろう。制服と拳銃の規格が、彼女の知らないうちに変更されてしまったのか? いや、そんなはずはない。青豆は新聞記事はこまめにチェックしている。そんな変更があったら、大きく報道されるはずだ。そしてまた彼女は警官たちの姿には常に注意を払っていた。今朝まで、ほんの数時間前まで、警官たちはいつものごわごわした制服を着て、いつもの無骨な回転拳銃を身につけていたのだ。彼女はそれをはっきり記憶していた。奇妙だ。
しかし青豆にはそれについて深く考えている余裕はなかった。済ませなくてはならない仕事がある。
青豆は渋谷駅のコインロッカーにコートを預け、スーツだけの姿になって、そのホテルに向かって急ぎ足で坂道を上った。中級のシティー?ホテルだ。とくに豪華なホテルではないが、一応の設備は揃っているし、清潔で、いかがわしい客も来ない。一階にはレストランがあり、コンビニエンス?ストアも入っている。駅に近く、ロケーションがいい。
彼女はホテルに入ると、まっすぐ洗面所に行った。ありがたいことに洗面所には誰もいなかった。まず便座に座って放尿をした。とても長い放尿だった。青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。それから洗面台に向かい、石鹸を使って丁寧に手を洗い、ブラシで髪をとかし、鼻をかんだ。歯ブラシを出して、歯磨き粉をつけずに手早く歯を磨いた。時間があまりないからフロスは省いた。そこまでする必要はあるまい。デートに出かけるわけではない。鏡に向かってうっすらと口紅をひいた。眉も整えた。スーツの上着を脱いで、ブラジャーのワイヤの位置を調整し、白いブラウスのしわをのばし、脇の下の汗の匂いをかいだ。匂いはない。そのあとで目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。
Читать дальше