「しかし小松さん、どんな理屈を持ち出そうと、大義名分を掲げようと、これはどうみても詐欺行為ですよ。動機はどこに出しても恥ずかしくないものかもしれないけれど、実際にはどこに出すこともできない。裏でこそこそ動き回らなくちゃなりません。詐欺という言葉が不適当なら、背信行為です。法律には反していなくても、そこにはモラルという問題があります。だって編集者が自社の文芸誌の新人賞作品をでっちあげるなんて、株式で言えばインサイダー取引きみたいなものじゃないですか」
「文学と株式を比較することはできない。その二つはまったく違うものだ」
「たとえばどんなところが違うんですか?」
「たとえば、そうだな、君はひとつ重大な事実を見落としている」と小松は言った。彼の口はこれまで見たことがないくらい大きく、楽しげに広がっていた。「というか、その事実から故意に目を背けている。それはね、君自身がすでにこいつを<���傍点>やりたがっている</傍点>ってことだ。君の気持ちはもう『空気さなぎ』の書き直しに向かっている。俺にはそれがよくわかる。リスクもモラルもへったくれもない。天吾くん、君は今では『空気さなぎ』を自分の手で書き直したくてたまらないはずだ。ふかえりの代わりに自分がその何かを取り出したくてたまらないはずだ。なあ、それがまさに文学と株式の違いなんだよ。そこでは良くも悪くも、金以上の動機がものごとを動かしていく。うちに帰って自分の本心をじっくり確かめてみるといい。鏡の前に立って自分の顔をよく眺めてみるといい。顔にしっかりとそう書いてあるぜ」
あたりの空気が突然薄くなったような気がした。天吾は短くまわりを見渡した。またあの映像がやってくるのだろうか? しかしそんな気配はなかった。その空気の希薄さはどこか別の領域からやってきたものだ。彼はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。小松の言うことはいつも正しいのだ。なぜか。
青豆はストッキングだけの素足で、狭い非常階段を降りた。むき出しの階段を風が音を立てて吹き抜けていった。タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。彼女は手すりがわりのパイプを素手でしっかりと握り、後ろ向きになって一段一段下に向かった。ときどき立ち止まって顔にかかった前髪を払い、たすきがけにしたショルダーバッグの位置を調整した。
眼下には国道二四六号線が走っていた。エンジン音やクラクション、車の防犯アラームの悲鳴、右翼の街宣車が流す古い軍歌、スレッジハンマーがどこかでコンクリートを砕いている音、その他ありとあらゆる都会の騒音が、彼女を取り囲んでいた。騒音はまわり三六〇度、上から下から、すべての方向から押し寄せてきて、風に乗って舞った。それを聞いていると(とくに聞きたくもないが、耳をふさいでいる余裕もない)、だんだん船酔いに似た気分の悪さを感じるようになった。
階段をしばらく降りたところで、高速道路の中央に向けて戻っていく平らな通路{キャットウォーク}があった。それからまたまっすぐ下に向かって降りていく。
むき出しの非常階段から道路をひとつ隔てて、五階建ての小さなマンションが建っていた。茶色の煉瓦タイルのけっこう新しい建物だ。こちらに向かってベランダがついていたが、どの窓もぴたりと閉ざされ、カーテンかブラインドがかかっている。いったいどんな種類の建築家が、首都高速道路と鼻をつき合わせるような位置にわざわざベランダをつけたりするのだろう? そんなところにシーツを干す人間もいないだろうし、そんなところで夕方の交通渋滞を眺めながらジン?トニックのグラスを傾ける人間もいないはずだ。それでもいくつかのベランダには、決まり事のようにナイロンの物干しロープが張ってあった。ひとつにはガーデンチェアと鉢植えのゴムの木まで置かれていた。うらぶれて色槌せたゴムの木だった。葉はぼろぼろになり、あちこちで茶色く枯れている。青豆はそのゴムの木に同情しないわけにはいかなかった。もし生まれ変われるとしてもそんなものにだけはなりたくない。
非常階段はふだんほとんど使われていないらしく、ところどころに蜘蛛の巣が張っていた。小さな黒い蜘蛛がそこにへばりついて、小さな獲物がやってくるのを我慢強く待っていた。しかし蜘蛛にしてみれば、とくに我慢強いという意識もないのだろう。蜘蛛としては巣を張る以外にとくべつな技能もないし、そこでじっとしている以外にライフスタイルの選択肢もない。ひとところに留まって獲物を待ち続け、そのうちに寿命が尽きて死んでひからびてしまう。すべては遺伝子の中に前もって設定されていることだ。そこには迷いもなく、絶望もなく、後悔もない。形而上的な疑問も、モラルの葛藤もない。おそらく。でも私はそうじゃない。私は目的に沿って移動しなくてはならないし、だからこそこうしてストッキングをだめにしながら、ろくでもない三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線のわけのわからない非常階段を一人で降りている。しみったれた蜘蛛の巣をはらい、馬鹿げたベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。
私は移動する。ゆえに私はある。
青豆は階段を降りながら、大塚環{たまき}のことを考えた。考えるつもりはなかったのだが、一度頭に浮かんでしまうと、考えることを止められなかった。環は彼女の高校時代のいちばんの親友であり、同じソフトボール部に属していた。二人はチームメイトとしていろんなところに一緒に行ったし、いろんなことを一緒にした。一度レズビアンのような真似をしたこともある。夏休みに二人で旅行をしていたとき、ひとつのベッドに寝ることになった。セミダブル?ベッドの部屋しかとれなかったのだ。そのベッドの中で二人はお互いの身体の様々な場所を触り合った。レズビアンだったわけではない。ただ少女特有の好奇心に駆られて、それらしきことを大胆に試してみただけだ。そのとき二人にはまだボーイフレンドがいなかったし、性的な経験もまったくなかった。その夜の出来事は今となっては、人生における「例外的ではあるが興味深い」エピソードとして記憶に残っているだけだ。しかしむきだしの鉄の階段を降りながら、環と身体を触り合ったときのことを思い出していると、青豆の身体が奥の方で少し熱を持ち始めたようだった。環の楕円形の乳首や、薄い陰毛や、お尻のきれいな膨らみや、クリトリスのかたちを、青豆は今でも不思議なくらい鮮明に覚えていた。
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