「『一九八四年』か。いや、ここにはない」
「どんなはなし」
天吾は小説の筋を思い出した。「ずいぶん昔、学校の図書館で読んだだけだから、細かい部分はよく覚えていないけど、とにかくその本が出版されたのは一九四九年で、その時点では一九八四年は遠い未来だった」
「ことしのこと」
「そう、今年がちょうど一九八四年だ。未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。ジョージ?オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ?ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で誰が味方なのかもわからなくなってくる。そんな話だよ」
「レキシをかきかえる」
「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ」
ふかえりはしばらくそれについて考えていた。
「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と天吾は言った。「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」
「あなたもかきかえている」
天吾は笑ってワインを一口飲んだ。「僕は君の小説に便宜的に手を入れただけだ。歴史を書き換えるのとはずいぶん話が違う」
「でもそのビッグ?プラザのホンはいまここにない」と彼女は尋ねた。
「残念ながら。だから読んであげることはできない」
「ほかのホンでもいい」
天吾は本棚の前に行って、書物の背表紙を眺めた。これまでに多くの本を読んできたが、所有する本の数は少ない。何によらず自分の住まいに多くのものを置くのが好きではなかった。だから読み終えた本は特別なものを別にして、古本屋に持っていった。すぐに読める本だけを買うようにしたし、大事な本は熟読して頭にたたき込んだ。それ以外の必要な本は近所にある図書館で借りて読む。
本を選ぶのに時間がかかった。声に出して本を読むことに慣れていなかったので、いったいどんな本が朗読に適しているのか、見当がつかなかったからだ。ずいぶん迷った末に、先週読み終えたばかりのアントン?チェーホフの『サハリン島』を取り出した。興味深い箇所に付箋を貼ってあったから、適当な場所だけを拾い読みすることができるだろう。
声に出して読む前に、天吾はその本についての簡単な説明をした。一八九〇年にチェーホフがサハリンに旅をしたとき、彼はまだ三十歳だったこと。トルストイやドストエフスキーのひとつ下の世代の、若手新進作家として高い評価を受け、首都モスクワで華やかな暮らしをしていた都会人チェーホフが、どうしてサハリン島という地の果てのようなところに一人で出かけ、そこに長く滞在しようと決心したのか、その正確な理由は誰にもわかっていないこと。サハリンは主に流刑地として開発された土地であり、一般の人々にとっては不吉さと惨めさの象徴でしかなかった。そして当時はまだシベリア鉄道はなかったから、彼は馬車で四千キロ余り、極寒の地を走破しなくてはならず、その苦行はもともと丈夫ではない彼の身体を、容赦なく痛めつけることになった。そしてチェーホフが八ヶ月に及ぶ極東の旅を終えて、その成果として書き上げた『サハリン島』という作品は、結果的に多くの読者を戸惑わせることになった。それは文学的な要素を極端に抑制した、むしろ実務的な調査報告書や地誌に近いものだったからだ。「どうしてチェーホフは作家としての大事な時期に、あんな無駄な、意味のないことをしたのだろう」とまわりの人々は囁き合った。批評家の中には「社会性を狙ったただの売名行為」と決めつけるものもいた。
「書くことがなくなって、ネタ探しに行ったんだろう」という意見もあった。天吾は本についている地図をふかえりに見せ、サハリンの位置を教えた。
「どうしてチェーホフはサハリンにいった」とふかえりが尋ねた。
「それについて<���傍点>僕が</傍点>どう考えるかということ?」
「そう。あなたはそのホンをよんだ」
「読んだよ」
「どうおもった」
「チェーホフ自身にもその正確な理由はよくわからなかったかもしれない」と天吾は言った。
「というか、ただ単にそこに行ってみたくなったんじゃないかな。地図でサハリン島の形を見ているうちに、むらむらとやみくもにそこに行きたくなった、とかね。僕にも似たような体験はある。地図を眺めているうちに、『何があっても、ここに行ってみなくっちゃ』という気持ちになってしまう場所がある。そして多くの場合、そこはなぜか遠くて不便なところなんだ。そこにどんな風景があるのか、そこでどんなことが行われているのか、とにかく知りたくてたまらなくなる。それは<���傍点>はしか</傍点>みたいなものなんだ。だから他人に、その情熱の出どころを指し示すことはできない。純粋な意味での好奇心。説明のつかないインスピレーション。もちろんその当時モスクワからサハリンに旅行するというのは想像を絶する難行だから、チェーホフの場合、それだけが理由じゃないとは思うけど」
「たとえば」
「チェーホフは小説家であると同時に医者だった。だから彼は一人の科学者として、ロシアという巨大な国家の患部のようなものを、自分の目で検証してみたかったのかもしれない。自分が都会に住む花形作家であるという事実に、チェーホフは居心地の悪さを感じていた。モスクワの文壇の雰囲気にうんざりしていたし、何かというと脚を引っ張り合う、気取った文学仲間にも馴染めなかった。底意地の悪い批評家たちには嫌悪感しか覚えなかった。サハリン旅行はそのような文学的な垢を洗い流すための、一種の巡礼的な行為だったのかもしれない。そしてサハリン島は、多くの意味で彼を圧倒した。だからこそチェーホフは、サハリン旅行を題材にとった文学作品を、ひとつとして書かなかったんじゃないかな。それは簡単に小説の題材にできるような、生半可なことじゃなかった。そしてその患部は、言うなれば彼の身体の一部になったんだ。あるいはそれこそが彼の求めていたものだったのかもしれないけれど」
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