天吾はそれについて考えてみた。小松の言い分にも一理あるように思えた。小松には何はともあれ編集者としての勘が具わっている。
「でもチャンスを与えてやるのは悪いことじゃないでしょう」と天吾は言った。
「水に放り込んで、浮かぶか沈むか見てみろ。そういうことか?」
「簡単にいえば」
「俺はこれまでにずいぶん無益な殺生をしてきた。人が溺れるのをこれ以上見たくはない」
「じゃあ、僕の場合はどうなんですか?」
「天吾くんは少なくとも努力をしている」と小松は言葉を選んで言った。「俺の見るかぎりでは手抜きがない。文章を書くという作業に対してきわめて謙虚でもある。どうしてか? それは文章を書くことが好きだからだ。俺はそこも評価している。書くのが好きだというのは、作家を目指す人間にとっては何より大事な資質だよ」
「でも、それだけでは足りない」
「もちろん。それだけでは足りない。そこには『特別な何か』がなくてはならない。少なくとも、何かしら俺には読み切れないものが含まれていなくてはならない。俺はね、こと小説に関して言えば、自分に読み切れないものを何より評価するんだ。俺に読み切れるようなものには、とんと興味が持てない。当たり前だよな。きわめて単純なことだ」
天吾はしばらく黙っていた。それから口を開いた。「ふかえりの書いたものには、小松さんに読み切れないものは含まれていますか?」
「ああ。あるよ、もちろん。この子は何か大事なものを持っている。どんなものだか知らんが、ちゃんと持ち合わせている。そいつはよくわかるんだ。君にもわかるし、俺にもわかる。それは風のない午後の焚き火の煙みたいに、誰の目にも明らかに見て取れる。しかしね天吾くん、この子の抱えているものは、この子の手にはおそらく負いきれないだろう」
「水に放り込んでも浮かぶ見込みはない」
「そのとおり」と小松は言った。
「だから最終選考には残さない?」
「そこだよ」と小松は言った。そして唇をゆがめ、テーブルの上で両手を合わせた。「そこで俺としては、言葉を慎重に選ばなくちゃならないことになる」
天吾はコーヒーカップを手に取り、中に残っているものを眺めた。そしてカップを元に戻した。小松はまだ何も言わない。天吾は口を開いた。「小松さんの言う<���傍点>ちょっとした別のアイデア</傍点>がそこに浮上してくるわけですね?」
小松は出来の良い生徒を前にした教師のように目を細めた。そしてゆっくりと肯いた。「そういうことだ」
小松という男にはどこかはかり知れないところがあった。何を考えているのか、何を感じているのか、表情や声音から簡単に読みとることができない。そして本人も、そうやって相手を煙に巻くことを少なからず楽しんでいるらしかった。頭の回転はたしかに速い。他人の思惑など関係なく、自分の論理に従ってものを考え、判断を下すタイプだ。また不必要にひけらかすことはしないが、大量の本を読んでおり、多岐にわたって綿密な知識を有していた。知識ばかりではなく、直感的に人を見抜き、作品を見抜く目も持っていた。そこには偏見が多分に含まれていたが、彼にとっては偏見も真実の重要な要素のひとつだった。
もともと多くを語る男ではなく、何につけ説明を加えることを嫌ったが、必要とあれば怜倒に論理的に自説を述べることができた。そうなろうと思えばとことん辛辣になることもできた。相手の一番弱い部分を狙い澄まし、一瞬のうちに短い言葉で刺し貫くことができた。人についても作品についても個人的な好みが強く、許容できる相手よりは許容できない人間や作品の方がはるかに多かった。そして当然のことながら相手の方も、彼に対して好意を抱くよりは、抱かないことの方がはるかに多かった。しかしそれは彼自身の求めるところでもあった。天吾の見るところ、彼はむしろ孤立することを好んだし、他人に敬遠されることを——あるいははっきりと嫌われることを——けっこう楽しんでもいた。精神の鋭利さが心地よい環境から生まれることはない、というのが彼の信条だった。
小松は天吾より十六歳年上で、四十五歳になる。文芸誌の編集一筋でやってきて、業界ではやり手としてそれなりに名を知られているが、その私生活について知る人はいない。仕事上のつきあいはあっても、誰とも個人的な話をしないからだ。彼がどこで生まれてどこで育ち、今どこに住んでいるのか、天吾は何ひとつ知らなかった。長く話をしても、そんな話題は一切出てこない。そこまでとっつきが悪く、つきあいらしきこともせず、文壇を軽侮するような言動を取り、それでよく原稿がとれるものだと人は首をひねるのだが、本人はさして苦労もなさそうに、必要に応じて有名作家の原稿を集めてきた。彼のおかげで雑誌の体裁がなんとか整うということも何度かあった。だから人に好かれはせずとも、一目は置かれる。
噂では、小松が東京大学文学部にいたときに六〇年安保闘争があり、彼は学生運動組織の幹部クラスだったということだ。樺{かんば}美智子がデモに参加し、警官隊に暴行を受けて死んだときにすぐ近くにいて、彼自身も浅からぬ傷を負ったという。真偽のほどはわからない。ただそう言われれば、と納得できるところはあった。長身でひょろりと痩せて、口がいやに大きく、鼻がいやに小さい。手脚が長く、指の先にニコチンのしみがついている。十九世紀のロシア文学に出てくる革命家崩れのインテリゲンチアを思わせるところがある。笑うことはあまりないが、いったん笑うと顔中が笑みになる。しかしそうなっても、とくに楽しそうには見えない。不吉な予言を準備しながらほくそ笑んでいる、年期を経た魔法使いとしか見えない。清潔で身だしなみは良いが、おそらく服装なんぞに興味がないことを世界に示すためだろう、常に似たような服しか着ない。ツイードのジャケットに、白のオックスフォード綿のシャツか淡いグレーのポロシャツ、ネクタイはなし、グレーのズボン、スエードの靴、それがユニフォームのようなものだ。色と生地と柄の大きさがそれぞれわずかに異なるツイードの三つボタンジャケットが半ダースばかり、丁寧にブラシをかけられ、自宅のクローゼットに吊されている光景が目に浮かぶ。見分けをつけるために番号だって振られているかもしれない。
細い針金のような硬い髪は、前髪のあたりがわずかに白くなりかけている。髪はもつれ、耳が隠れるくらいだ。不思議なことにその長さは、一週間前に床屋に行くべきだったという程度に常に保たれている。どうしてそんなことが可能なのか、天吾にはわからない。ときどき冬の夜空で星が瞬くように、眼光が鋭くなる。何かあっていったん黙り込むと、月の裏側にある岩みたいにいつまでも黙っている。表情もほとんどなくなり、体温さえ失われてしまったみたいに見える。
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