青豆はショルダーバッグが落ちないようにたすきがけにした。さっきまで乗っていた真新しい黒のトヨタ?クラウン?ロイヤルサルーンが、ずっと向こうに見えた。午後の太陽の光を受けて、フロントグラスがミラーグラスのようにまぶしく光っていた。運転手の顔までは見えない。しかし彼はこちらを見ているはずだ。
見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。
青豆は大きく息を吸い込み、大きく息をはいた。そして『ビリー?ジーン』のメロディーを耳で追いながら鉄柵を乗り越えた。ミニスカートが腰のあたりまでまくれあがった。かまうものか、と彼女は思った。見たければ勝手に見ればいい。スカートの中の何を見たところで、私という人間が見通せるわけではないのだ。そしてほっそりとした美しい両脚は、青豆が自分の身体の中でいちばん誇らしく思っている部分だった。
鉄柵の向こう側に降りると、青豆はスカートの裾をなおし、手のほこりを払い、再びコートを着て、ショルダーバッグを肩にかけた。サングラスのブリッジを奥に押した。非常階段は目の前にある。灰色に塗装された鉄の階段だ。簡素で、事務的で、機能性だけが追求された階段。ストッキングだけの素足に、タイトなミニスカートをはいた女性が昇り降りするように作られてはいない。ジュンコ?シマダも、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を昇り降りすることを念頭に置いてスーツをデザインしてはいない。大型トラックが反対車線を通り過ぎ、階段をぶるぶると揺らせた。風が鉄骨の隙間を音を立てて吹き抜けた。しかしとにかく階段はそこにあった。あとは地上に降りていくだけだ。
青豆は最後に後ろを振り返り、講演を終えて演壇に立ったまま、聴衆からの質問を待ち受ける人のような姿勢で、路上に隙間なく並んだ自動車を左から右に、そして右から左に見渡した。自動車の列はさっきからまったく前進していない。人々はそこに足止めされ、ほかにすることもないまま、彼女の一挙一動を見守っていた。この女はいったい何をしようとしているのだろう、と彼らはいぶかっていた。関心と無関心が、うらやましさと軽侮が入り交じった視線が、鉄柵の向こう側に降りた青豆の上に注がれていた。彼らの感情はひとつの側に転ぶことができぬまま、不安定な秤{はかり}のようにふらふらと揺れていた。重い沈黙があたりに垂れ込めていた。手を上げて質問するものもいなかった(質問されてももちろん青豆には答えるつもりはなかったが)。人々は永遠に訪れることのないきっかけを、ただ無言のうちに待ち受けていた。青豆は軽く顎を引き、下唇を噛み、濃い緑色のサングラスの奥から彼らをひととおり品定めした。
私が誰なのか、これからどこに行って何をしようとしているのか、きっと想像もつかないでしょうね。青豆は唇を動かさずにそう語りかけた。あなたたちはそこに縛りつけられたっきり、どこにも行けない。ろくに前にも進めないし、かといって後ろにも下がれない。でも私はそうじゃない。私には済ませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は先に進ませてもらう。
青豆は最後に、そこにいるみんなに向かって思い切り顔をしかめたかった。しかしなんとかそれを思いとどまった。そんな余計なことをしている余裕はない。一度顔をしかめると、もとの表情を回復するのに手間がかかるのだ。
青豆は無言の観衆に背を向け、足の裏に鉄の無骨な冷たさを感じながら、緊急避難用の階段を慎重な足取りで降り始めた。四月を迎えたばかりの冷ややかな風が彼女の髪を揺らし、いびつなかたちの左側の耳をときおりむきだしにした。
天吾{てんご}の最初の記憶は一歳半のときのものだ。彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせていた。ベビーベッドには一人の赤ん坊がいて、それはおそらく天吾だった。彼は自分を第三者として眺めている。あるいはそれは彼の双子の兄弟なのだろうか? いや、そうじゃない。そこにいるのはたぶん一歳半の天吾自身だ。彼には直感的にそれがわかる。赤ん坊は目を閉じ、小さな寝息をたてて眠っていた。それが天吾にとっての人生の最初の記憶だ。その十秒間ほどの情景が、鮮明に意識の壁に焼き付けられている。前もなく後ろもない。大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。
機会があるごとに天吾はまわりの人に尋ねてみた。思い出せる人生の最初の情景は何歳のころのものですかと。多くの人にとって、それは四歳か五歳のときのものだった。早くても三歳だった。それより前という例はひとつもない。子供が自分のまわりにある情景を、ある程度論理性を有したものとして目撃し、認識できるようになるのは、少なくとも三歳になってかららしい。それより前の段階では、すべての情景は理解不能なカオスとして目に映る。世界はゆるい粥{かゆ}のようにどろどろとして骨格を持たず、捉えどころがない。それは脳内に記憶を形成することなく、窓の外を過ぎ去っていく。
父親でない男が母親の乳首を吸っているという状況の意味あいが、もちろん一歳半の幼児に判断できるはずはない。それは明らかだ。だからもし天吾のその記憶が真正なものであるとすれば、おそらく彼は何も判断せず、目にした情景をあるがまま網膜に焼き付けたのだろう。カメラが物体をただの光と影の混合物として、機械的にフィルムに記録するのと同じように。そして意識が成長するにつれて、その保留され固定された映像が少しずつ解析され、そこに意味性が付与されていったのだろう。でもそんなことが果たして現実に起こり得るのだろうか? 乳幼児の脳にそんな映像を保存しておくことが可能なのだろうか?
あるいはそれはただのフェイクの記憶なのだろうか。すべては彼の意識が後日、なんらかの目的なり企みを持って、勝手に拵{こしら}え上げたものなのだろうか? 記憶の捏造{ねつぞう}——その可能性についても天吾は十分に考慮した。そしておそらくそうではあるまいという結論に達した。拒えものであるにしては記憶はあまりにも鮮明であり、深い説得力をもっている。そこにある光や、匂いや、鼓動。それらの実在感は圧倒的で、まがいものとは思えない。そしてまた、その情景が実際に存在したと仮定する方が、いろんなものごとの説明がうまくついた。論理的にも、そして感情的にも。
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