「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと繰り返した。
「もちろん」と青豆は言った。そのとおりだ。ひとつの物体は、ひとつの時間に、ひとつの場所にしかいられない。アインシュタインが証明した。現実とはどこまでも冷徹であり、どこまでも孤独なものだ。
青豆はカーステレオを指さした。「とても良い音だった」
運転手は肯いた。「作曲家の名前はなんて言いましたっけ?」
「ヤナーチェック」
「ヤナーチェック」と運転手は反復した。大事な合い言葉を暗記するみたいに。それからレバーを引いて後部の自動ドアを開けた。「お気をつけて。約束の時間に間に合うといいんですが」
青豆は革の大振りなショルダーバッグを手に車を降りた。車を降りるときにもまだ、ラジオの拍手は鳴りやまず続いていた。彼女は十メートルばかり前方にある緊急避難用スペースに向けて、高速道路の端を注意深く歩いた。反対行きの車線を大型トラックが通り過ぎるたびに、高いヒールの下で路面がゆらゆらと揺れた。それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。
赤いスズキ?アルトに乗った小さな女の子が、助手席の窓から顔を突き出し、ぽかんと口を開けて青豆を眺めていた。それから振り向いて母親に「ねえねえ、あの女の人、何しているの?どこにいくの?」と尋ねた。「私も外に出て歩きたい。ねえ、お母さん、私も外に出たい。ねえ、お母さん」と大きな声で執拗に要求した。母親はただ黙って首を振った。それから責めるような視線を青豆にちらりと送った。しかしそれがあたりで発せられた唯一の声であり、目についた唯一の反応だった。ほかのドライバーたちはただ煙草をふかせ、眉を軽くひそめ、彼女が側壁と車のあいだを迷いのない足取りで歩いていく姿を、眩しいものを見るような目で追っていた。彼らは一時的に判断を保留しているようだった。たとえ車が動いていないにせよ、首都高速道路の路上を人が歩くのは日常的な出来事とは言えない。それを現実の光景として知覚し受け入れるまでにいくらか時間がかかる。歩いているのがミニスカートにハイヒールというかっこうの若い女性であれば、それはなおさらだ。
青豆は顎を引いてまっすぐ前方を見据え、背筋を伸ばし、人々の視線を肌に感じながら、確かな足取りで歩いていった。シャルル?ジョルダンの栗色のヒールが路上に乾いた音を立て、風がコートの裾を揺らせた。既に四月に入っていたが、風はまだ冷たく、荒々しさの予感を含んでいた。彼女はジュンコ?シマダのグリーンの薄いウールのスーツの上に、ベージュのスプリング?コートを着て、黒い革のショルダーバッグをかけていた。肩までの髪はきれいにカットされ、よく手入れされている。装身具に類するものは一切つけていない。身長は一六八センチ、贅肉はほとんどひとかけらもなく、すべての筋肉は念入りに鍛え上げられているが、それはコートの上からはわからない。
正面から仔細に顔を観察すれば、左右で耳のかたちと大きさがかなり異なっていることがわかるはずだ。左の耳の方が右の耳よりずっと大きくて、かたちがいびつなのだ。しかしそんなことにはまず誰も気がつかない。耳はだいたいいつも髪の下に隠されていたからだ。唇はまっすぐ一文字に閉じられ、何によらず簡単には馴染まない性格を示唆している。細い小さな鼻と、いくぶん突き出した頬骨と、広い額と、長い直線的な眉も、その傾向にそれぞれ一票を投じている。しかしおおむね整った卵形の顔立ちである。好みはあるにせよ、いちおう美人といってかまわないだろう。問題は、顔の表情が極端に乏しいところにあった。堅く閉じられた唇は、よほどの必要がなければ微笑みひとつ浮かべなかった。その両目は優秀な甲板監視員のように、怠りなく冷ややかだった。おかげで、彼女の顔が人々に鮮やかな印象を与えることはまずなかった。多くの場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔立ちの善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さなのだ。
おおかたの人は青豆の顔立ちをうまく把握できなかった。いったん目を離すともう、彼女がどんな顔をしていたのか描写することができない。どちらかといえば個性的な顔であるはずなのに、細部の特徴がどうしてか頭に残らない。そういう意味では彼女は、巧妙に擬態する昆虫に似ていた。色やかたちを変えて背景の中に潜り込んでしまうこと、できるだけ目立たないこと、簡単に記憶されないこと、それこそがまさに青豆の求めていることだった。小さな子供の頃から彼女はそのようにして自分の身を護ってきたのだ。
ところが何かがあって顔をしかめると、青豆のそんなクールな顔立ちは、劇的なまでに一変した。顔の筋肉が思い思いの方向に力強くひきつり、造作の左右のいびつさが極端なまでに強調され、あちこちに深いしわが寄り、目が素早く奥にひっこみ、鼻と口が暴力的に歪み、顎がよじれ、唇がまくれあがって白い大きな歯がむき出しになった。そしてまるでとめていた紐が切れて仮面がはがれ落ちたみたいに、彼女はあっという間にまったくの別人になった。それを目にした相手は、そのすさまじい変容ぶりに肝を潰した。それは大いなる無名性から息を呑む深淵への、驚くべき跳躍だった。だから彼女は知らない人の前では、決して顔をしかめないように心がけていた。彼女が顔を歪めるのは、自分ひとりのときか、あるいは気に入らない男を脅すときに限られていた。
緊急用駐車スペースに着くと、青豆は立ち止まってあたりを見まわし、非常階段を探した。それはすぐに見つかった。運転手が言ったように、階段の入り口には腰より少し上くらいの高さの鉄柵があり、扉には鍵がかかっていた。タイトなミニスカートをはいてその鉄柵を乗り越えるのはいささか面倒だが、人目さえ気にしなければとくに難しいことでもない。彼女は迷わずハイヒールを脱ぎ、ショルダーバッグの中に突っ込んだ。素足で歩けばストッキングはたぶんだめになるだろう。でもそんなものはどこかの店で買えばいい。
人々は彼女がハイヒールを脱ぎ、それからコートを脱ぐ様子を無言のまま見守っていた。すぐ前に止まっている黒いトヨタ?セリカの開いた窓から、マイケル?ジャクソンの甲高い声が背景音楽として流れてきた。『ビリー?ジーン』。ストリップ?ショーのステージにでも立っているみたい、と彼女は思った。いいわよ。見たいだけ見ればいい。渋滞に巻き込まれてきっと退屈しているんでしょう。でもね、みなさん、これ以上は脱がないわよ。今日のところはハイヒールとコートだけ。お気の毒さま。
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