そういうことはすべて、大塚環が手ほどきしてくれたのだ。上品なレストランに入ったらどのように振る舞えばいいか、どんな料理の選び方をすれば見くびられないですむか、ワインの注文の仕方、デザートの頼み方、ウェイターへの接し方、カトラリの正式な使い方、そういうすべてを環は心得ていて、青豆にいちいち細かいところまで教えてくれた。服の選び方や、アクセサリーのつけ方や、化粧の方法も、青豆は環から教わった。青豆にとってはそんなすべてが新しい発見だった。環は山の手の裕福な家の育ちだったし、母親は社交家で、マナーや服装にはことのほかうるさかった。だから環はその手の世間的な知識を、まだ高校生のうちからしっかり身につけていた。大人の出入りする場所にも、臆せずに入っていくことができた。青豆はそのようなノウハウを貧欲に吸収していった。もし環という良き教師に巡り合えなかったら、青豆は今とは違ったかたちの人間になっていただろう。ときどき環がまだ生きていて、自分の内側にこっそりと潜んでいるような気がするくらいだ。
あゆみは最初のうちいくぶん緊張していたが、ワインを飲むにつれて少しずつ気持ちが和んできたようだった。
「ねえ、青豆さんに質問があるんだけど」とあゆみは言った。「もし答えたくなかったら答えなくていい。でもちょっと聞いてみたかったんだ。怒ったりしないよね?」
「怒らないよ」
「変なことを質問したとしても、私には悪意はないの。それはわかってね。ただ好奇心が強いだけ。でもそういうことでときどきすごく腹を立てる人がいるから」
「大丈夫よ。私は腹を立てない」
「ほんとに? みんなそう言いながらちゃんと腹を立てるんだけど」
「私はとくべつ。だから大丈夫」
「ねえ、小さな子供の頃に男の人に変なことされた経験ってある?」
青豆は首を振った。「ないと思う。どうして?」
「ただちょっと訊いただけ。なければいいんだ」とあゆみは言った。それから話を換えた。「ねえ、これまで恋人を作ったことはある? つまり真剣につき合った人ってことだけど」
「ない」
「一人も?」
「ただの一人も」と青豆は言った。そしてちょっと迷ってから言った。「実を言えば、私は二十六になるまで処女だったの」
あゆみは少しのあいだ言葉を失っていた。ナイフとフォークを下に置き、ナプキンで口元を拭い、それから目を細めて青豆の顔をしばらくじつと見た。
「青豆さんみたいな素敵な人が? 信じられないな」
「そういうことに興味がまったく持てなかったのよ」
「男に興味がなかったってこと?」
「好きになった人は一人だけいる」と青豆は言った。「十歳のときにその人が好きになって、手を握った」
「十歳のときに男の子を好きになった。ただそれだけ?」
「それだけ」
あゆみはナイフとフォークを手に取り、考え深げにさいまき海老を小さくカットした。「それで、その男の子は今どこで何をしているの?」
青豆は首を振った。「わからない。千葉の市川で小学校三年生と四年生のときに同じクラスだったんだけど、私は五年生のときに都内の小学校に転校して、それ以来一度も会っていない。話も聞かない。彼についてわかっているのは、生きていれば今では二十九歳になっているだろうということだけ。たぶん秋に三十歳になるはず」
「ということはつまり、その子が今どこにいて何をしているのか、青豆さんは調べようとも思わなかったわけ? 調べるのはそんなにむずかしくないと思うんだけど」
青豆はまたきっぱりと首を振った。「自分から調べる気にはなれなかった」
「変なの。私ならきつとあらゆる手を使って居所をつきとめるけどな。そんなに好きなら探し出して、あなたのことが好きだって面と向かって告白すればいいのに」
「そういうことはしたくないの」と青豆は言った。「私が求めているのは、ある日どこかで偶然彼と出会うこと。たとえば道ですれ違うとか、同じバスに乗り合わせるとか」
「運命の邂逅」
「まあ、そんなところ」と青豆は言って、ワインを一口飲んだ。「そのとき、彼にはっきり打ち明けるの。私がこの人生で愛した相手はあなた一人しかいないって」
「それって、すごくロマンチックだとは思うけどさ」とあゆみはあきれたように言った。「出会いの実際の確率は、けっこう低いような気がするな。それにもう二十年会ってないんだから、相手の顔だって変わっているかもしれないよ。通りですれ違ってもわかるものかしら」
青豆は首を振った。「いくら顔かたちが変わっていても、一目見れば私にはわかるの。間違えようがない」
「そんなものなんだ」
「そんなものなの」
「そして青豆さんは、その偶然の邂逅があることを信じて、ただひたすら待ち続けている」
「だからいつも注意怠りなく街を歩いている」
「ふうん」とあゆみは言った。「でもそこまで彼のことが好きでも、ほかの男たちとセックスをするのはべつにかまわないんだね。つまり二十六歳になってからあとは、ということだけど」
青豆は少し考えた。それから言った。「そんなのはただ通り過ぎていくだけのものだから。あとには何も残らない」
しばらく沈黙があり、そのあいだ二人は料理を食べることに集中した。それからあゆみが言った。「立ち入ったことをきくみたいだけど、二十六歳のときに青豆さんの身に何かがあったの?」
青豆は肯いた。「そのときにある出来事が私の身に起こって、私をすっかり変えてしまった。でも今ここでその話をするわけにはいかない。ごめんなさい」
「そんなこといいよ」とあゆみは言った。「なんかしつこく詮索するみたいで、気を悪くしてない?」
「ちっとも」と青豆は言った。
スープが運ばれてきて、二人はそれを静かに飲んだ。会話はそのあいだ中断した。二人がスプーンを置き、ウェイターがそれを下げたあとで会話が再開した。
「でもさ、青豆さんは怖くないのかな?」
「たとえばどんなことが?」
「だってさ、その人にひょっとして永遠に巡り合えないかもしれないじゃない。もちろん偶然の再会みたいなのはあるかもしれない。そうなればいいと私も思う。ほんとにそう願うよ。でも現実問題として、再会できないまま終るという可能性だって、大いにあるわけでしょ。それにもし再会できたとしても、彼はもうほかの人と結婚してるかもしれない。子供も二人くらいいるかもしれない。そうよね? もしそうなったら、青豆さんはおそらく、一人ぼっちでそのあとの人生を生きていくわけじゃない。この世の中でただ一人好きな人と結ばれることもなく。そう考えると怖くならない?」
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