青豆は毎月の給料でさえ使い切れずにいる。それなりの蓄えもある。だからそんな金をまったく必要とはしなかった。彼女は最初に報酬をもらったとき、老婦人にそう言った。
「これはただのかたちです」、老婦人は小さな穏やかな声で諭すように言った。「決まり事のようなものだと考えて下さい。ですからあなたはそれをいったん受け取らなくてはなりません。お金が必要なければ、使わないでおけばいいことです。あるいはそれも嫌だというのなら、どこかの団体に匿名で寄付してもかまいません。どうしようとあなたの自由です。しかしもし私の忠告を聞くつもりがあるのなら、そのお金はしばらくのあいだ手をつけずに、どこかに保管した方がいいと思います」
「でも私としてはこういうことで、お金のやりとりをしたくはないんです」と青豆は言った。
「その気持ちはわかります。しかしそれらのろくでもない男たちが<���傍点>うまく移動してくれた</傍点>おかげで、面倒な離婚訴訟も起こらないし、親権をめぐる争いも起きません。夫がいつか自分のところにやってきて、顔のかたちが変わるほど殴られるんじゃないかと怯えて暮らす必要もありません。生命保険も入り、遺族年金も支払われます。あなたに手渡されるこのお金は、その人たちからの感謝の<���傍点>かたち</傍点>だと考えて下さい。あなたは間違いなく正しいことをしました。しかしそれは無償の行為であってはなりません。何故かわかりますか?」
「よくわかりません」と青豆は正直に言った。
「何故ならあなたは天使でもなく、神様でもないからです。あなたの行動が純粋な気持ちから出たことはよくわかっています。だからお金なんてもらいたくないという心情も理解できます。しかし混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎ止めておく必要があります。そのためのものです。正しいことであれば、その気持ちが純粋であれば何をしてもいいということにはなりません。わかりますか?」
しばらくそれについて考えてから、青豆は肯いた。「私にはよくわかりません。でもとりあえずおっしゃるとおりにしましょう」
老婦人は微笑んだ。そしてハーブティーを一口飲んだ。「銀行の口座に入れたりはしないように。もし税務署がみつけたら、これは何だろうと首をひねることになります。現金のまま銀行の貸金庫に放り込んでおきなさい。いつか役に立ちます」
そうします、と青豆は言った。
クラブから戻ってきて、食事の用意をしているときに、電話のベルが鳴った。
「青豆さん」と女の声が言った。かすかにしゃがれた声。あゆみだった。
青豆は受話器を耳に当て、手を伸ばしてガスの火を細めながら言った。「どう、警察の仕事はうまく行っている?」
「駐車違反の切符を片端から書いて、世間の人にいやがられている。男っけもなく、せっせと元気に働いているよ」
「それは何より」
「ねえ、青豆さん、今何をしているの?」
「夕ご飯をつくっている」
「あさっては空いている? 夕方からあとってことだけど」
「空いているけど、この前みたいなことをするつもりはないわよ。あっちの方はしばらくはお休みするから」
「うん。私ももうしばらくはいいよ、ああいうのは。ただここのところ青豆さんと会ってないから、できたらちょっと会って話をしたいなと思っただけ」
青豆はそれについて少し考えた。でも急には気持ちが決められなかった。
「ねえ、今ちょっと妙め物をしているんだ」と青豆は言った。「手がはなせないの。あと三十分くらいしてから、もう一度電話をかけなおしてもらえるかな」
「いいよ、あと三十分してからまた電話するね」
青豆は電話を切り、妙め物を作り終えた。それからもやしの味噌汁をつくり、玄米と一緒に食べた。缶ビールを半分だけ飲み、残りは流しに捨てた。食器を洗い、ソファに座って一息ついたところで、またあゆみから電話がかかってきた。
「できたら一緒に食事でもしたいと思ったんだ」とあゆみは言った。「いつも一人でご飯を食べるのはつまらないから」
「いつも一人でご飯を食べているの?」
「私はまかないつきの寮で暮らしているから、いつもはみんなでわいわい言い合いながらご飯を食べている。でもたまにはゆっくりと静かにおいしいものを食べたい。できればちょこっとお洒落なところで。でも一人じゃ行きたくない。そういう気持ちってわかるでしょ?」
「もちろん」
「でもそういうときに一緒に食事できる相手が、まわりにいないんだ。男にせよ、女にせよ。どっちかっていうと居酒屋タイプのみなさんなわけ。で、青呈さんだったら一緒にそういうところに行けるんじゃないかなって思ったの。迷惑かもしれないけど」
「迷惑なんかじゃないよ」と青豆は言った。「いいよ、どこかにお洒落な食事をしにいきましょう。私もしばらくそういうことをしてないから」
「ほんとに?」とあゆみは言った。「それはすごく嬉しい」
「あさってならいいのね?」
「うん、明くる日は非番なの。どこか良いお店を知ってる?」
青豆は乃木坂にあるフランス料理店の名前をあげた。
あゆみはその名前を聞いて息を呑んだ。「青豆さん、それってものすごく有名なお店じゃないの。値段もやたら高いし、予約をとるのに二ヶ月はかかるっていう話をどっかの雑誌で読んだ。私のお給料じゃとても行けそうにない」
「大丈夫、そこのオーナー?シェフがうちのジムの会員で、個人的なトレーニング?コーチを私がしているの。メニューの栄養価についてのアドバイスみたいなこともしている。だから私が頼めば優先してテーブルをとってくれるし、値段もぐつと安くしてくれる。そのかわりあんまりいいテーブルじゃないかもしれないけど」
「私なら、押入の中だってべつにかまわないよ」
「しっかりお洒落をしていらっしゃい」と青豆は言った。
電話を切ってから、青豆は自分がその若い婦人警官に自然な好意を感じていることを知って、少し驚いた。誰かにそんな気持ちを抱くことができたのは、大塚環が死んで以来のことだ。もちろんそれは、環に対してかつて抱いていた気持ちとはまったく違うものだ。しかしそれにしても、誰かと二人きりで食事をすること自体、あるいは食事をしてもいいと思うこと自体、ずいぶん久方ぶりだった。おまけに相手はよりによって現職の警察官だ。青豆はため息をついた。世の中は不思議だ。
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