「わざわざ来てくれてありがとう。ご苦労様でした」、彼女はからっぽのじょうろを手にしたまま言った。これで会見は終わったようだった。
青豆も立ち上がり、バッグを手に取った。「お茶をご馳走になりました」
「もう一度お礼を言います」と女主人は言った。
青豆は少しだけ微笑んだ。
「何ひとつ心配しなくていいのよ」と女主人は言った。口調はいつの間にかもとの穏やかさを取り戻していた。目には温かい光が浮かんでいた。彼女は青豆の腕に軽く手を添えた。「私たちは正しいことをしたのだから」
青豆は肯いた。いつも同じ台詞で話は終わる。おそらくこの人は自分に向かってそう繰り返し言い聞かせているのだ、と青豆は思った。マントラかお祈りみたいに。「何ひとつ心配しなくていいのよ。私たちは正しいことをしたのだから」と。
青豆はまわりに蝶の姿がないことを確かめてから、温室の扉を小さく開け、外に出て、扉を閉めた。女主人はじょうろを手にあとに残った。温室から出ると、外の空気はひやりとして新鮮だった。樹木と芝生の香りがした。そこは現実の世界だった。時間はいつもどおりに流れている。青豆はその現実の空気をたっぷりと肺に送り込んだ。
玄関にはタマルが同じチーク材の椅子に腰を下ろして待っていた。彼女に私書箱の鍵を渡すためだ。
「用件は済んだ?」と彼は尋ねた。
「済んだと思う」と青豆は言った。そして彼の隣りに腰を下ろし、鍵を受け取ってショルダーバッグの仕切の中にしまった。
二人はしばらく何も言わずに、庭にやってくる鳥たちを眺めていた。風はまだぴたりと止んだままで、柳は静かに垂れ下がっていた。いくつかの枝の先は、あと少しで地面につこうとしていた。
「その女の人は元気にしている?」と青豆は尋ねた。
「どの女?」
「渋谷のホテルで心臓発作を起こした男の奥さんのこと」
「今のところ、それほど元気とは言えないな」とタマルは顔をしかめながら言った。「受けたショックがまだ続いている。あまり話ができない。時間が必要だ」
「どんな人なの?」
「三十代前半。子供はいない。美人で感じもいい。スタイルもなかなかのものだ。しかし残念ながら、今年の夏は水着姿にはなれないだろう。たぶん来年の夏も。ポラロイドは見た?」
「さっき見た」
「ひどいものだろう?」
「かなり」と青豆は言った。
タマルは言った。「よくあるパターンだよ。男は世間的に見れば有能な人間だ。まわりの評価も高い、育ちも良いし、学歴も高い。社会的地位もある」
「ところがうちに帰ると人ががらりと変わる」と青豆があとを引き取って続けた。「とくに酒が入ると暴力的になる。といっても、女にしか腕力をふるえないタイプ。女房しか殴れない。でも外面{そとづら}だけはいい。まわりからは、おとなしい感じの良いご主人だと思われている。自分がどんなひどい目にあわされているか、奥さんが説明して訴えても、まず信用してもらえない。男もそれがわかっているから、暴力をふるうときも、人には見せにくい場所を選ぶ。あるいは跡が残らないようにやる。そういうところ?」
タマルは肯いた。「おおむね。ただし酒は一滴も飲まない。こいつは素面{しらふ}で白昼堂々とやる。余計にたちが悪い。彼女は離婚を望んでいた。しかし夫はがんとして離婚を拒んだ。彼女のことが好きだったのかもしれない。あるいは手近な犠牲者を手放したくなかったのかも知れない。あるいは奥さんを力ずくでレイプするのが好きだったのかもしれない」
タマルは足を軽く上げて、革靴の光り具合をまた確認した。それから話を続けた。
「家庭内暴力の証拠を示せば、もちろん離婚は成立するだろうが、それには時間もかかるし、金もかかる。相手が腕のいい弁護士を用意すれば、かなり不愉快な目にもあわされる。家庭裁判所は混みあっているし、裁判官の数は不足している。それにもし離婚が成立し、慰謝料なり生活扶助金の額が確定したところで、そんなものまともに払う男は少ない。なんとでも言い抜けられるからね。日本では慰謝料を払わなかったという理由で、元亭主が刑務所に入れられることはほとんどない。支払いの意思はあるという姿勢を示し、名目上いくらかでも支払えば、裁判所は大目に見てくれる。日本の社会はまだまだ男に対して甘くできているんだ」
青豆は言った。「ところが数日前、その暴力的な夫が渋谷のホテルの一室で、うまい具合に心臓発作を起こしてくれた」
「<���傍点>うまい具合に</傍点>という表現はいささか直接的すぎる」とタマルは軽く舌打ちをして言った。「<���傍点>天の配剤によって</傍点>というのが俺の好みだ。いずれにせよ死因に不審な点はないし、人目を引くほど高額の保険金でもないから、生保会社が疑問を抱くことはない。たぶんすんなり支払われるはずだ。とはいえ、それでもまずまずの額だ。その保険金で彼女は新しい人生の第一歩を踏み出すことができる。おまけに離婚訴訟にかかる時間と金がそっくり節約できる。煩雑で意味のない法律上の手続きや、その後のトラブルがもたらす精神的苦痛も回避できた」
「それに、そんなカスみたいな危ないやつがこのまま世間に野放しになって、どこかで新たな犠牲者を見つけることもない」
「天の配剤」とタマルは言った。「心臓発作のおかげで、何もかもがすんなりと収まった。最後がよければすべてはいい」
「もしどこかに最後というものがあれば」と青豆は言った。
タマルは微笑みを連想させる短いしわのようなものを、口もとにこしらえた。「どこかに必ず最後はあるものだよ。『ここが最後です』っていちいち書かれてないだけだ。ハシゴのいちばん上の段に『ここが最後の段です。これより上には足を載っけないでください』って書いてあるか?」
青豆は首を振った。
「それと同じだ」とタマルは言った。
青豆は言った。「常識を働かせ、しっかり目を開けていれば、どこが最後かは自ずと明らかになる」
タマルは肯いた。「もしわからなくても——」、彼は指で落下する仕草をした。「いずれにせよ、そこが最後だ」
二人はしばらく口を閉ざして鳥の声を聞いていた。穏やかな四月の午後だった。どこにも悪意や暴力の気配は見当たらない。
「今ここには何人の女の人が<���傍点>滞在</傍点>しているの?」と青豆は尋ねた。
「四人」とタマルは即座に答えた。
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