「さきがけ」という名前を耳にして、そこに秘められたとくべつな響きに反応したように、つばさが一瞬目を伏せた。しかしすぐに目を上げ、前と同じ表情のない顔に戻った。彼女の中で小さな渦のようなものが突然巻き起こり、そしてすぐに静まったように見えた。
「その『さきがけ』という教団の教祖が、つばさちゃんをレイプしたのです」と老婦人は言った。
「霊的な覚醒を賦与するという口実をつけ、それを強要しました。初潮を迎える前に、その儀式を終えなくてはならないというのが、両親に告げられたことです。そのようなまだ汚れのない少女にしか、純粋な霊的覚醒を与えることはできない。そこに生じる激しい痛みは、ひとつ上の段階に上がるための、避けて通れない関門なのだと。両親はそれをそのまま信じました。人間がどこまで愚かしくなれるか、実に驚くばかりです。つばさちゃんのケースだけではありません。我々が得た情報によれば、教団内のほかの少女たちに対しても同様のことが行われてきました。教祖は歪んだ性的嗜好をもった変質者です。疑いの余地なく。教団や教義は、そんな個人的欲望を隠すための便宜的な衣装に過ぎません」
「その教祖には名前があるのですか?」
「残念ながらまだ名前まではわかっていません。ただ『リーダー』と呼ばれているだけです。どんな人物で、どんな経歴で、どんな顔をしているかも不明です。どれだけ探っても情報が出てこないのです。完全にブロックされています。山梨県の山中にある教団本部に閉じこもって、人前に出ることはほとんどありません。教団の中でも彼に会える人間はごく少数です。常に暗い場所にいて、そこで瞑想をしているということです」
「そして私たちはその人物を野放しにしておくことはできない」
老婦人はつばさに目をやり、それからゆっくりと肯いた。「これ以上犠牲者を出すことはできません。そう思いませんか?」
「つまり、私たちは何らかの手を打たなくてはならない」
老婦人は手を伸ばして、つばさの手の上に重ねた。しばらくのあいだ沈黙の中に身を浸していた。それから口を開いた。「そのとおりです」
「彼がそういう変質的な行為を繰り返しているというのは、確かなのですね?」と青豆は老婦人に尋ねた。
老婦人は肯いた。「少女たちのレイプが組織ぐるみで行われていることについては、確かな裏をとってあります」
「もし本当にそうだとしたら、たしかに許しがたいことです」と青豆は静かな声で言った。「おっしゃるように、これ以上の犠牲者を出すわけにはいきません」
老婦人の心の中でいくつかの想念が絡み合い、せめぎ合っているようだった。それから彼女は言った。
「このリーダーという人物について、私たちはより詳しく、より深く知る必要があります。曖昧なところを残してはおけません。なんといっても人の命がかかっていることですから」
「その人物はほとんど表に出てこないのですね?」
「そうです。そしておそらく警護も厳しいはずです」
青豆は目を細め、洋服ダンスの抽斗の奥にしまわれている、特製のアイスピックを思い浮かべた。その鋭く尖った針先のことを。「どうやら難しい仕事になりそうですね」と彼女は言った。
「<���傍点>とりわけ</傍点>難しい仕事に」と老婦人は言った。そしてつばさの手に重ねていた手を放し、その中指を軽く眉にあてた。それは老婦人が——それほどしばしばあることではないが——何かを考えあぐねているしるしだった。
青豆は言った。「私が一人で山梨県の山の中まで出かけていって、警備の厳しい教団の中に忍び込んで、そのリーダーを<���傍点>処理</傍点>して、そこから穏やかに出てくるというのは、現実的にかなりむずかしそうですね。忍者映画であればともかく」
「あなたにそこまでしてもらおうとは考えていません。もちろん」と老婦人は真剣な声で言った。それからそれが冗談であることに思い当たったように、淡い笑みを口元に付け加えた。「そんなことは話のほかです」
「それからもうひとつ、気にかかることがあります」と青豆は老婦人の目を見つめながら言った。
「リトル?ピープルのことです。リトル?ピープルというのはいったい何ものなのか? 彼らはつばさちゃんにいったい何をしたか? そのリトル?ピープルについての情報も、あるいは必要になるかもしれません」
老婦人は眉に指をあてたまま言った。「私にもそのことは気にかかります。この子はほとんど口をききませんが、さっきも言ったように、リトル?ピープルという言葉を何度か口にしています。おそらく何か大事な意味をもったことなのでしょう。でもリトル?ピープルがどういうものなのか、教えてはくれません。その話になると堅く口を閉ざしてしまいます。もう少し時間を下さい。そのことについても調べてみましょう」
「『さきがけ』について、もっと詳しい情報を得るための心当たりのようなものはあるのですか?」
老婦人は穏やかな笑みを浮かべた。「かたちのあるもので、お金を積んで買えないものはまず何ひとつありません。そして私にはお金を積み上げる用意があります。とくに今回の件に関しては。時間は少しかかるかもしれませんが、必要な情報は必ず手に入れます」
どれだけお金を積んでも買えないものはある、と青豆は思った。<���傍点>たとえば月</傍点>。
青豆は話題を変えた。「本当につばさちゃんを引き取って、育てられるつもりなのですか?」
「もちろん本気です。正式な養女にしようと思っています」
「ご承知だとは思いますが、法律的な手続きは簡単にはいかないと思います。なにしろ事情が事情ですから」
「もちろん覚悟しています」と老婦人は言った。「あらゆる手を尽くします。私にできることは何でもするつもりでいます。この子は誰の手にも渡しません」
老婦人の声には痛切な響きが混じっていた。彼女が青豆の前でこれほど感情をむき出しにしたことは一度もなかった。それが青豆には少しばかり気になった。老婦人はそのような危惧を、青豆の表情に読みとったようだった。
彼女は打ち明けるように、声を落として言った。「これは誰にも話したことがありません。今まで私の胸にだけしまってきました。口に出すのがつらかったからです。実を言いますと、自殺をしたとき娘は妊娠していました。妊娠六ヶ月でした。たぶん娘は、その男の子供を産みたくなかったのでしょう。だから胎児を道連れにして命を絶ってしまったのです。もし無事に生まれていたら、この子と同じくらいの年になっているはずです。そのとき私は二つの大事な命を同時に失ったのです」
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