つばさは青豆に、同じ年頃であったときの自分の姿を思い出させた。私は自分の意志でなんとかそこから抜け出すことができた。しかしこの子の場合、ここまで深刻に痛めつけられてしまうと、もう後戻りはできないかもしれない。もう二度と自然な心を取り戻すことはないかもしれない。そう思うと、青豆の胸は激しく痛んだ。青豆がつばさの中に見いだしたのは、自分自身の<���傍点>そうであったかもしれない</傍点>姿だった。
「青豆さん」と老婦人は打ち明けるように言った。「今だから言いますが、失礼だとは承知の上で、あなたの身元調査のようなことをさせていただきました」
そう言われて青豆は我に返り、相手の顔を見た。
老婦人は言った。「最初にここであなたに会って話をしたすぐあとにです。不快に思わないでくれると嬉しいのですが」
「いいえ、不快には思いません」と青豆は言った。「私の身元を調査なさるのは、立場として当たり前のことです。私たちがやっているのは、普通のことではありませんから」
「そのとおりです。私たちはとても微妙な、細い一本の線の上を歩んでいます。だからこそ私たちは、お互いを信頼しなくてはなりません。しかし相手が誰であれ、知るべきことを知らずして、人を信頼することなどできません。だからあなたに関するすべてを調査させました。現在からずつと過去まで遡って。もちろん<���傍点>ほとんどすべて</傍点>ということですが。人についてのまったくのすべてを知ることなんて、誰にもできません。おそらくは神様にも」
「悪魔にも」と青豆は言った。
「悪魔にも」と老婦人は繰り返した。そして仄{ほの}かな微笑みを浮かべた。「あなた自身が少女時代に、カルトがらみの心の傷を負っていることは承知しています。あなたのご両親は熱心な『証人会』の信者だったし、今でもそうです。そしてあなたが信仰を捨てたことを決して赦そうとはしない。そのことが今でもあなたを苦しめている」
青豆は黙って肯いた。
老婦人は続けた。「私の正直な意見を述べれば、『証人会』はまともな宗教とは言えません。もしあなたが小さな子供の頃に大きな怪我をしたり、手術を要する病気にかかったりしていたら、そのまま命を落としていたかもしれません。聖書に字義的に反しているからといって、生命維持に必要な手術まで否定するような宗教は、カルト以外の何ものでもありません。それは一線を越えたドグマの濫用です」
青豆は肯いた。輸血拒否の論理は、「証人会」の子供たちがまず最初に頭にたたき込まれることだ。神の教えに背いた輸血をして地獄に堕ちるよりは、清浄な身体と魂のまま死んで、楽園に行った方が遥かに幸福なのだ、子供たちはそう教えられる。そこには妥協の余地はない。地獄に堕ちるか楽園に行くか、辿るべき道はそのどちらかだ。子供たちにはまだ批判能力が具わっていない。そのような論理が社会通念的にあるいは科学的に正しいことかどうか、知りようもない。子供たちは親から教わったことを、そのまま信じ込むしかない。もし私が小さな子供のときに、輸血が必要とされる立場に追い込まれていたら、私は親に命じられたとおり、輸血を拒否してそのまま死ぬことを選んだはずだ。そして楽園だかどこだか、わけのわからないところに運ばれていったはずだ。
「そのカルト教団は有名なものなのですか?」と青豆は尋ねた。
「『さきがけ』と呼ばれています。もちろんあなたも、その名前くらいは耳にしたことはあるでしょう。一時は毎日のように新聞にその名前が載りましたから」
青豆にはその名前を耳にした覚えはなかった。しかし何も言わず曖昧に肯いた。そうしておいた方がいいような気がしたからだ。彼女は自分が今、本来の1984年ではなく、いくつかの変更を加えられた1Q84年という世界を生きているらしいことを自覚していた。まだ仮説に過ぎないが、それは日ごとに着々とリアリティーを増している。そして知らされていない情報が、その新しい世界にはまだたくさんありそうだった。彼女はどこまでも注意深くならなくてはならない。
老婦人は話を続けた。「『さきがけ』はもともとは小さな農業コミューンとして始まり、都市から逃れた新左翼グループが中核となって運営されていたのですが、ある時点から急に方向転換をして、宗教団体に様変わりしました。その転向の理由も経緯もよくわかっていません。奇妙といえば奇妙な話です。しかしいずれにせよ大部分のメンバーはそこにそのままとどまったようです。今では宗教法人として認証を受けていますが、その教団の実体はほとんど世間には知られていません。基本的には仏教の密教系に属しているということですが、おそらく教義の中身ははりぼてみたいなものでしょう。しかしこの教団は急速に信者を獲得し、強大化しつつあります。<���傍点>あんな重大な事件</傍点>に何らかの関与があったにもかかわらず、教団のイメージはまったくダメージを受けませんでした。彼らは驚くほどにスマートにそれに対処しましたからね。むしろ宣伝になったくらいです」
老婦人は一息ついてからまた話を続けた。
「世間にはほとんど知られていないことですが、この教団には『リーダー』という名前で呼ばれる教祖がいます。彼は特殊能力を持っていると見なされています。その能力を用いて時として難病を治したり、未来を予言したり、様々な超常現象を起こしたりするということです。もちろんみんな手の込んだインチキに違いありませんが、それもあって、多くの人々が彼のもとに引き寄せられていくようです」
「超常現象?」
老婦人はきれいなかたちをした眉を寄せた。「それが何を意味するのか、具体的なことまではわかりません。はっきり言って私は、その手のオカルト的なものごとに興味がまったく持てません。大昔から同じような詐欺行為が、世界の至る所で繰り返されてきました。手口はいつだって同じです。それでも、そのようなあさましいインチキは衰えることを知りません。世間の大多数の人々は真実を信じるのではなく、真実であってもらいたいと望んでいることを進んで信じるからです。そういう人々は、両目をいくらしっかり大きく開けていたところで、実はなにひとつ見てはいません。そのような人々を相手に詐欺を働くのは、赤子の手をひねるようなものです」
「さきがけ」と青豆は口に出してみた。なんだか特急列車の名前みたいだ、と彼女は思った。宗教団体の名前には思えない。
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